ライン随想録 円高はこわくない(ドル円90円だった頃の国際決済銀行内の様子)
ライン随想録 1995年 井浦幸雄 スイス・バーゼル
随想録
'95年の春、円がドル90円台となり、さらに円高が加速していたときである。
毎日開かれている朝の幹部会で、日本の輸出業者がたいへん苦しんでおり、円高をなんとかしてくれと政府に要望する声が強まっていると報告した。
他の仲間は皆ヨーロッパ人か北米の人であるが、一同大爆笑となった。
「誰もが一様に問題を抱えているんだなあ」 と言うわけである。
もちろん、みな日本の状況はよく知っており、 困っていることも承知しているのだが、 輸出の競争力がつきすぎて、貿易黒字がたまりすぎ、これを調整するために、円高圧力が高まっていることをみな先刻見通しているのである。
すなわち、日本の輸出業者が困るほどの円高になってくれないと、ほかの国々の産業はもっと困るのだという意識が根底にある。
どこの国でも為替レートの変動以上に数多くの構造問題、 失業問題など難題を抱えて苦しみぬいているときに、日本の人々が、それも日本の競争力のつよい輸出産業が円高に苦情をいうのは「ぜいたくな悩み」と映るようだ。
それが、大爆笑という反応となってあらわれるのだろう。
以上のような話を東京に行って日本の仲間にすると、皆けげんそうな顔をする。
「なかなか日本の円高の悩みに理解が得られないのですね」というわけである。
この辺の意識のずれは日本の内外できわめて大きいといわざるを得ない。
すでに日本でも何人かの人が指摘していることではあるが、第二次大戦後1971年までの二十数年間続いた360円の固定相場の時代は、日本産業にきわめて有利に働いた。
この時のうま味が忘れられず、つねに政府に対し、輸出産業にとって有利な円為替レートを維持するよう政治・経済面からの圧力が働いたことは想像にかたくない。
円高のメリットを本来享受するはずの消費者や海外旅行者の政治的な立場はきわめて弱く、これまでつねに大声をあげてきた輸出産業からの声にたやすくかき消されてしまう。
日本では外国のものを購入したり、海外へ旅行したりすることに若干の後ろめたさをともなう人々が、 一定の年齢層以上にかならず存在する。
こういうことから、日本では一般の人々の生活を犠牲にして、 産業、 それも輸出産業がより強力な力をたくわえているのではないかとの批判、 警戒感が生まれてくるのだろう。
例えば、ヨーロッパの人々の平均的な生活を前提にすると、そういった日本への批判がまったく的を得ていないと言いにくいところがある。
日本の仲間は先進国にキャッチアップするためにはこの程度の犠牲は当然払わなければならないものとわりきっていることも承知している。
それでは、こういった立場の違い、 意識のずれをどのように調整していったらよいのだろうか。
それには、為替相場のもたらすメッセージに謙虚に耳を傾け、この調整メカニズムに今以上の信頼を置く以外に方策はないのではないか。
為替相場の変動には若干のイクセス (過剰)が伴うのは当然であるが、三~四年のスパンで見たときには、 より均衡に近いレベルを模索するのではないかと思われる。
為替相場の変動は投機によって引き起こされる、 と安易に批判する風潮があるが、一歩間違うと、ひとつの銀行、会社を潰してしまう可能性を常にはらんでいるため、ほとんどの市場参加者はきわめて慎重かつ保守的である。
ヘッジファンドなどが相場をはるのは、政策のゆがみなどで自分たちの主張が九九九パーセント正しいと思われる時だけであろう。
日本国内では、諸規制の緩和などで輸入品が入りやすいような環境を作るべきだとの主張が多くなされているが、これがスムーズに実行されていれば、円を売ってドルを買う需要が高まるわけで、円高圧力をつねにモダレートにする方向に働く筋合いにある。
問題は、それが出来ないために、 より極端なかたちに円レートが形成されるわけである。
これが輸出産業にダメージを与えたり、 規制を乗り越えてまで輸入品が入ってくる程の為替レートをもたらしてしまうのである。
ある意味では、輸出面、輸入面での日本の歪みが特異な為替レートをもたらすのであり、これが神の見えざる手がもたらした均衡的なレートとして謙虚にみつめる必要があるように思えてならない。
日本の報道では、外国の影響とか陰謀が極端な円高をもたらしているとの指摘が時々なされるが、そのほとんどが的はずれであろう。
外国では陰謀でも駆使して、極端な円高をもたらしたいと考えている人は枚挙にいとまもないほど大勢いるにちがいないが、 膨大な為替市場ではまずこれは不可能にちかい。
為替に円高圧力が働くときには、日本の輸出業者がドルの目減りを小さくとどめるためにドル売り予約を早めようとし、これに資本取引のリスク回避のためのヘッジ操作がからまることが発端になるのではないか。
こうしたうねりが始まったときには、このエネルギーがおさまるまでは、見守る以外に良い方策はないように思われるが、いかがだろうか。
反論されることを覚悟してあえていえば、考え方も制度も習慣もことなる外国と取引をする際には、為替の大幅な変動を常に計算に入れて外貨(多くの場合米ドルか」での価格設定おこなう必要があるのではなかろうか。
これができなければ、円建てを主張するか、さもくば、輸出をあきらめるべきであろう。
政府が為替レートを安定させるよう期待することは、自分の経営能力が乏しいことを棚にあげた甘え以外のなにものでもないように思うのだが、こうした考えは日本では極論であろうか。
終わりに
今回の随想録にはBIS(国際決済銀行)内部での会話が含まれています。
井浦さんは、スイス・バーゼルにある国際決済銀行で仕事されていました。
当時の時代背景を知っていると、当時の日本人が何を感じ、外国人は何を感じていたかがわかり、会話の内容がより深く理解できるかと思います。
日本は1991年のバブル崩壊から長期的不況に突入し、低金利政策による海外資本の流入で円高が促進した時代でした。
今回の随想録はバブル崩壊後の円高ピーク、日本円90円だった頃の話です。
橋本首相(在任1996/1/11~1998/7/30)の頃です。
我ら団塊の世代は橋本首相の「金融の国際化」と言ってる姿が浮かびます。
日本の金融市場にいくつかの重要な変化があった頃の話です。
この時期、日本の大手銀行は合併を進め、規模を拡大していました。
国際的なBIS(国際決済銀行)規制がこの変化に大きな影響を与えました。
銀行の資本要件を強化し、リスク管理を向上させることが目的でした。
日本の銀行の繰り返しの合併は、この規制クリアが目的だったのです。
具体的な合併の例としては、1996年に三和銀行と東海銀行が合併してUFJ銀行が誕生しました。
また、1998年には富士銀行と日本興業銀行が合併してみずほ銀行が設立されました。
補足
この記事は2017年頃の「ライン随想録(井浦幸雄さん)」の復刻版です。
当時、私の故郷の「おふくろの味」を井浦さんがWebに載せて下さった。
この記事は住職の息子によって今も公開されている。
しかし、井浦さんの「ライン随想録」は今やどこにも見当たらない。
それで、当時お世話になったことを思い出し、復刻することにした。
インターネット上にあるライン随想録へのリンクも追加しました。
【ライン随想録】
ライン随想録 インターネットと私(その3)ブラウザー
ライン随想録 インターネットと私(その2)電子メール
ライン随想録 インターネットと私(その1)概況
ライン随想録 中世都市バーゼルの路面電車(本記事)
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