娘のケガとペーパードライバー問題
なわとびを朝から晩までぴょんぴょんしてたら、「なんか痛い」「すごく痛い」と言い脚を引き摺り出したので、急いで病院に連れて行った。
しかし小学校低学年だと、すべてが小さすぎてレントゲンに異常も映らない。結局なんだか分からないまま脚に装具をつけることになった。
不自由で可哀想だなあと同情するも、娘は満更でもなさそう。装具の特別感がわりと嬉しいようだ。まあ、分かるっていうか。こういうところに血筋を感じてしまう。いまだにオッドアイに憧れる私の娘なだけある。
とりあえずしばらく自転車で送迎することにした。ママチャリでの送迎。我が家は坂の上。電動でも息が切れる。車が運転できたらなあああと思う。もう10000回思っている。習い事でも必ず思う。車なら片道20分の道のりを、徒歩15分+電車5分+徒歩10分で送っている。真夏はブチ切れながら歩いている。
「車が運転できたら」って京都に住みだしてから運転免許は取ったはずなのだ。でも今、運転はまったくできない。なぜか。
私は視野が異常に狭い。その自覚がある。電柱はみんなが時々ぶつかりながら歩いているものだと信じていたが、周りに聞くと「ぶつかったことがない」と言う。まじか。普通の人間は高性能なお掃除ロボットみたいなセンサーが内蔵されてるものなんだな、と驚いた。
向いてない。私が運転をするべきじゃない。万が一があったら取り返しがつかない。でも、「運転ができない」ことは確実に私の自信を削っている。車社会で、みんな運転できて当然の場所。「なんで運転しないの?」「運転すればいいじゃん」と言われると、なにを答えても言い訳になってしまう気がする。
近所の小児科はコロナ以降、駐車場で待機がルールになっている。そのため、緊急の場合はわざわざ夫に半休を取ってもらい受診している。あまりの無力さに、存在する意味をうっすら考える。
友だちと遊ぶときは、必ず自転車か電車で行ける場所になる。こちらの都合なので恐縮である。向こうからのお誘いで、車でしかいけない場合は乗せてもらうが、私は正しい助手席でのふるまいにも自信がない。運転手が信号で停まるたびになんか飲ませたり口にグミを入れたりしないといけないのか、しなくていいのか、はっきりせず落ち着かない。いつか切れられて高速道路で置き去りにされるかもしれないから、なるべく人の車には乗りたくない。
冒頭に戻るが娘の脚のケガである。その整形外科が、歩道のない道路に面している。もちろんママチャリで連れていくしかない。車の走るところをママチャリで走るのって怖すぎの難しすぎで半泣きで走っている。
道も狭くて、横に避けても車が追い越せないから、もう「私は車だ」というマインドで道を走っている。もちろん爆漕ぎしてはいるけど、本物の車ほどの速度はでない。渋滞なんかしたらメンタルが崩壊しそうになる。そしてあまりにも寒い。凍える娘に断腸の思いで上着を貸したとき、悲しみが両手を広げて「かみさま…!!」「運転ができるようになりたい…!!」と鳥のように空へ昇っていった感があった。
家で何回か練習したことはある。いつもサイドミラーを見る余裕がない。それを夫がちくいち注意してくる。サイドミラーを確認してる間に正面でなにかを引いていたらどうするのか?と言い返し口論になった。人間の眼って、そんなにいっぱい見られるものなの?でもたぶん夫が正しい。
向いてない。はやく全ての車は自動運転になってほしい。
