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M&Aの勘所|四則演算でできるバリュエーションが、なぜ難しいのか

M&Aアドバイザーとしてそれなりの年数を重ねてきて、日々さまざまな企業の方とお仕事をする中で、繰り返し感じることがあります。

バリュエーション、特にDCF法(Discounted Cash Flow法)の割引率について、「正しく計算されているかどうか」に意識が向きすぎて、もっと本質的なことが抜け落ちているケースが少なくないのではないか、と。

今日は「M&Aの勘所」シリーズとして、割引率にまつわる、地味だけれど構造的に重要なポイントを書いてみます。

バリュエーションは「四則演算」でできてしまう

私がこの業界に入った頃、先輩方からよく聞いたのは「昔はM&Aの理論体系なんて、日本語の書籍がほとんどなかった」という話でした。英語の教科書を読みながら、お客さんに解説していた時代があったそうです。

それが今では、日経の中堅企業でもM&Aを成長戦略の柱に据え、社内にM&A専門チームや専任人材を抱える会社が増えてきました。当然、そうした企業の方々はバリュエーションの基本的な枠組みもご存じです。

ただ、ここに落とし穴がある気がしています。

M&Aのバリュエーションは、表面だけなぞろうとすると、実はかなりシンプルに見えてしまいます。

DCF法であれば ── 事業計画をキャッシュフローベースに変換して、WACC(加重平均資本コスト)で割り引いて、合計したものが事業価値。そこにネットキャッシュ(もしくはネットデット)の調整を加えれば株式価値になる。計算自体は、掛け算・割り算・足し引き。極端に言えば小学校の算数で対応できる四則演算の世界です。

マルチプル法(上場している類似企業の株価と財務指標の比率を使って対象会社の価値を推定する、マーケットアプローチの一手法)も同様で、上場会社の指標と株価・企業価値(EV)の関係を割り算しているだけ。バリュエーションの教科書を開くとΣ(シグマ)記号が出てきて一瞬構えますが、本質的にはやっていることは総和、つまり足し算の繰り返しです。

もちろん、背後にはモディリアーニ=ミラーの定理(企業の資本構成と企業価値の関係を示すコーポレートファイナンスの基礎理論)やリスク・リターンの均衡仮説、複利の考え方など、さまざまなコーポレートファイナンスの理論体系がどっしり控えています。けれども、表面を舐めるだけなら「やってる感」はわりと簡単に出せてしまう。これが、この分野の厄介なところだと私は感じています。

割引率のパラメーターを「正しく計算する」ことの限界

バリュエーションの議論の場で、しばしば目にする光景があります。

「WACCが10%か11%か」「サイズリスクプレミアムを加算すべきか」「ベータの算出期間は適切か」── テクニカルなパラメーターの精度を巡る議論です。

サイズリスクプレミアムというのは、時価総額が小さい企業は大企業より事業リスクが高いとされ、その分だけ投資家が追加的に要求するリターンのこと。実務ではIbbotson Associates(現Kroll)やDuff & Phelps社が公表するデータを参照し、時価総額のレンジに応じて数パーセントを上乗せするのが一般的です。ただ、このサイズリスクプレミアム一つ取っても、そもそも加算すべきなのかという根本的な議論があります。日本市場においてはその存在自体が明確に観察されていないとする研究結果もあり、突き詰めると哲学的な話にも入っていく領域です。

(参考:上原FAS合同会社「WACC計算におけるサイズリスクプレミアムの実務」 https://roadtoartisan.com/valuation-size-risk-premium/

しかし、こうしたパラメーターの精緻さについて、例えば10.3%か10.5%かという0.2%の差異を詰めていく作業は ── もちろん価値に換算すれば大きな金額差になることもあるのですが ── ディール全体の文脈でいうと、正直に言ってしまえば「些細」な領域に属するケースが多い気がしています。

これは別に「細かい計算なんてどうでもいい」と言いたいわけではありません。ただ、もっと大きな構造的な不整合が見過ごされたまま、パラメーターの端数を詰めている場面を見ると、「順番が違うのでは」と思うことがある、ということです。

勘所その1:「リスクをどこで吸収するか」── 分子と分母の配分原則

では、その「構造的な不整合」とは何か。

1つ目は、事業計画の性質と割引率の前提が噛み合っていないというケースです。

少しだけ理論的な話をさせてください。DCF法の本質を煎じ詰めると、「将来のキャッシュフローに含まれる不確実性(リスク)を、現在価値に変換する際にどう処理するか」という問いに行き着きます。そしてコーポレートファイナンスの大原則として、リスクの処理には2つの経路しかありません。分子(キャッシュフローそのもの)を調整するか、分母(割引率)を調整するかです。

分子でリスクを吸収するなら、事業計画を保守的に補正して「確実性等価」に近づける。分母で吸収するなら、楽観的な計画はそのまま使いつつ、高い割引率でリスクを反映する。理論的にはどちらでも同じ結論に至るはずですが、重要なのは両方で同時に吸収してはいけないということです。同じリスクを二重に計上すれば価値は過小評価になり、どちらでも処理しなければリスクが蒸発して過大評価になる。

DCF法の割引率(WACC)は、CAPM(Capital Asset Pricing Model:資本資産価格モデル)を使って導出されるのが一般的です。ざっくり言えば、リスクフリーレート(国債利回りなどの安全資産のリターン)にエクイティリスクプレミアム(株式市場に投資することで追加的に期待されるリターン)をベータ(個別銘柄の市場に対する感応度)で調整して乗せる。理論的には「この業界の上場企業に投資する投資家がどれくらいのリターンを要求しているか」を見ていることになります。

つまり、類似会社から取ってきた割引率というのは、暗黙のうちに「その類似会社群が持っているような事業計画のリスク」── つまり上場企業が株主の目にさらされながら策定した、ある程度達成可能性の高い計画が前提のリスク水準 ── を反映しているわけです。

ところが、買収対象が非上場の成長企業だったり、スタートアップだったり、新規事業を多数展開している転換期の企業だったりすると、事情が変わります。そうした企業の事業計画は、往々にして「期待値」というよりも「こうなったらいいな」という要素が色濃く含まれている。

ここで先ほどの原則に立ち返ると、事業計画がアグレッシブである(=分子にリスクが残っている)なら、分母もそれに対応した高い割引率でなければバランスしません。整合性を取るには、大きく2つのアプローチがあると考えています。

アプローチA:分子側(事業計画)を調整する。 対象会社のアグレッシブな計画に補正をかけて、上場会社と同程度の達成可能性を持つ水準にまで現実化する。その上で、類似会社から導出した通常の割引率で割り引く。リスクを分子で吸収するパターンです。

アプローチB:分母側(割引率)を調整する。 事業計画のチャレンジング(楽観的)な性質をある程度そのまま受け入れた上で、そのリスクに見合うだけ高い割引率を設定する。例えば、AICPAのバリュエーションガイドや実務で参照されるスタートアップ向けの割引率(ステージによって30%~60%超に及ぶこともある)を考慮に入れる、といった方法です。リスクを分母で吸収するパターンですね。

(参考:AICPA「Accounting and Valuation Guide: Business Combinations」 https://www.aicpa-cima.com/cpe-learning/publication/accounting-and-valuation-guide-business-combinations

やってはいけないのは、事業計画を徹底的に叩いて現実的な数字にした(分子でリスクを吸収済み)にもかかわらず、割引率にはスタートアップ向けの35%や40%を適用してしまう(分母でもリスクを吸収する)こと。これが先ほど申し上げた「二重計上」であり、結果として対象会社の価値を不当に低く見積もることになります。逆に、楽観的な計画をそのまま使いつつ、上場企業並みの10%程度の割引率で割り引くのは、リスクがどこにも吸収されずに「蒸発」している状態です。

地味な話ですが、この不整合はバリュエーションの結論に非常に大きなインパクトを与えます。パラメーターの0.2%の差よりも、こちらの方がはるかに重い論点ではないかと私は考えています。

勘所その2:類似会社を「知る」── 情報の非対称性はここにもある

2つ目は、割引率のもう一方の起点である類似会社の選定です。

これは「適切な会社を選びましょう」という教科書的な話にとどまりません。選んだ類似会社が、今どういう状態にあるのかをしっかり把握しましょう、ということです。

上場企業とはいえ、それぞれ個別の事情を抱えています。一時的な業績悪化、新規事業への大型投資、業態転換の最中、経営陣の交代── そうした個別の要素が株価やベータに反映され、ひいては割引率の数値に影響してくる。

ここでもう一つ、コーポレートファイナンスの基本的な概念を補助線として引いておきたいのが、情報の非対称性です。M&Aにおいて「売り手は自社の実態を知っているが、買い手は知らない」という非対称性はよく語られます。これはアカロフの「レモン市場」(品質情報の偏りによって市場が機能不全を起こす現象を示した経済学の古典的理論)にも通じる構造です。

しかし、情報の非対称性は対象会社だけの話ではないと私は感じています。類似会社の選定にも同じ力学が働いている。類似会社として選んだ上場企業の「表面上の業績数値」と「実際の事業の中身」の間にもギャップはありますし、なぜその会社が今の株価水準にいるのかという背景── 市場の期待、一時的なイベント、セクターローテーション── を読み解かなければ、取ってきたベータやマルチプルの意味するところを正確に理解できません。

対象会社の事業計画をしっかり見ましょう、というのと同じ解像度で、類似会社の「今」もしっかり見る。割引率というのは「マーケット側の情報」と「対象会社固有の情報」を橋渡し(ブリッジ)する概念です。そしてブリッジの両端に情報の非対称性が潜んでいる以上、片側だけ精緻に見ても橋は安定しない。当たり前のことなのですが、実務の中では意外と見過ごされがちなポイントだと感じています。

おわりに:DCFが映し出しているのは「価値」か、それとも「前提の束」か

ここまで割引率の整合性について書いてきましたが、最後にもう一段、根本的な問いに触れておきたいと思います。

DCF法が算出するのは、あくまで理論上の「価値(Value)」です。一方、M&Aの現場で最終的に成立するのは「価格(Price)」であり、この2つは概念として別物です。ファイナンスの教科書では、効率的市場仮説のもとで価値と価格は一致するとされています。しかしM&A市場は、株式市場とは根本的に異なる構造を持っています。流動性は低く、取引は相対で行われ、参加者は限定的。同じ会社が同時に複数の市場で取引されることもない。効率的市場仮説が想定するような「多数の参加者による継続的な価格発見メカニズム」がほぼ働かない環境です。

さらに言えば、CAPMが前提としている投資家像にも目を向ける必要があります。CAPMの世界では、投資家は十分に分散されたポートフォリオを持っており、個別銘柄のリスクの一部は分散効果で打ち消されます。だからこそ、リスク指標としてベータ(市場全体との連動性)だけを見ればよいとされる。

しかし、M&Aの買い手── 特に事業会社── は、対象会社を「丸ごと」取り込む非分散投資家です。分散効果は働きません。理論上、分散投資家にとってはベータで十分なリスク指標になりますが、集中投資家にとっては、ベータでは捉えきれない個別リスク(顧客集中、キーマンリスク、規制変更への脆弱性など)もコストに反映されてしかるべきです。つまり、CAPMが想定する投資家像と、実際にバリュエーションの結果をもとに意思決定する人の間に、そもそも構造的なズレがある。

こうして考えると、WACCの0.2%を巡る議論がどこか居心地悪く感じられる理由も見えてくる気がします。私たちは、理論と現実のズレの上に精密な計算を積み重ねている。そのことに自覚的であるかどうかが、バリュエーションとの付き合い方を分けるのかもしれません。

だからといって、DCF法やWACCが無意味だとは思いません。むしろ、DCFから出てくる数字は「こういう前提を置けば、このくらいの価値になる」という条件付きの回答であって、絶対的な正解ではない。その前提の束── 事業計画の性質、類似会社の選定、リスクの配分方法、そして理論そのものが持つ限界── を自覚した上で使いこなすことが、バリュエーションの実務で求められる本質的なリテラシーなのだと感じています。

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