世界の解像度と小さな私の願い


人より繊細なこと、感受性が豊かなこと、エネルギーの回復に時間が掛かることを、私はずっと嫌なものだと思っていた。

「身長や骨格の違いと同じで、ただの個性だよ」

そう言われても、どこか納得できなかった。

もっと鈍感だったら
もっと気にしない性格だったら
もっとガシガシ行動できる人だったら

きっと今より上手く生きられたんじゃないか、
成功できたんじゃないか

そんな思いがずっとあった

・・・

昨日ふと、感受性や世界の解像度というのは
人それぞれの持つ「豆電球みたいな受信機の数」なのかもしれない、と思った

LEDスクリーンを想像してみる

細かな電球がたくさん並んでいれば、高い解像度で映像を映し出せる

反対に電球の数が少なければ、大まかな輪郭は分かるけれど、細かな違いは見えにくい

もしかすると、人の感覚も目には見えないが
同じような構造なのではなかろうか

感情や空気感、人の微細な変化

そうしたものを受信する「豆電球」の数や大きさが、人によって違うだけ

優れているとか劣っているとかではなく、
単に受信できる情報量が違う

そう考えた時、幼い頃の出来事が少し違って見えた

・・・

私は子供の頃から、言葉にならない違和感にモヤモヤしたり、誰かの悲しさを想像して急に泣き出したりする子供だった

一方で母は、私とは違う解像度で世界を捉えていた

だから私の感情の変化に、不機嫌になったり、
怪訝そうな顔をしたりした

以前の私は、その反応を見て

「私が変なんだ」
と解釈していた

でも事実は、

「彼女に分かってもらえなかった」
だけだった


そこに

「だから私はおかしい」
「だから価値がない」

という解釈を足して世界を見ていたのは私だった

母が悪かったわけでもない
私がおかしかったわけでもない

私は自分のスクリーンに映ったものを母と共有したかっただけで
もしかしたら母もそうだったのかもしれない

ただ見えている世界の解像度が違っていた

そう思った瞬間、すごくホッとして泣けた


そして過去に、

「その感性が素敵だね」
と言ってくれた人たちの言葉や、

「もっとその複雑さを表現に使っていいんだよ」
と言ってくれた講師の言葉を思い出した。

これまでも何度も聞いていたはずなのに、どこか受け取り切れていなかったその言葉が、
ようやく身体の中に沁みた気がした


人にはそれぞれの解像度があって、
高ければ良いわけでもないし、
低ければ悪いわけでもない


同じ世界を見ているようで、
実はまったく違う景色を見ているのかもしれない


あの頃の小さな私は、
母に共感して寄り添ってほしかった

分かってもらえなかった悲しさの奥にあったのは、

「大好きな人にこの景色を一緒に見てほしい」

そんな願いだったのかもしれない


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