これまでの聖書関連の投稿について振り返り

ここ最近、筆者は聖書関連の記事を書いていました。そのリンクを、下記に記します。

これまであれこれと書きましたが、実のところ、筆者はクリスチャンではありません。洗礼を受けていないし、教会にもほとんど行ったことがありません。神学者でも聖書学者でもキリスト教の研究者でもありません。ましてや、預言者気取りではありません。

クリスチャンでもないのに、なぜこれらの内容を書いたのかというと、聖書を読んだことで少なからぬ影響を受けたからです。信者にはならず信仰は持てなくても、読んだことで価値観や考え方は大きく変わりました。その恩返しも兼ねて、こうして記述した次第です。
もしかしたら、筆者の文章を読んだ方が興味を持ち、聖書を読むきっかけになるかもしれません。教会に行くようになり洗礼を受けて信者になるかもしれません。

では筆者は洗礼を受けるのかというと、これは分かりません。現時点ではそういう気がありません。というのも、確信と覚悟がないからです。
洗礼とは、「イエス・キリストによる救いの物語を受け入れてその中で生きる」ことの告白です。もし今のまま受けた場合、自分にも教えにも教会にも嘘をつくことになってしまいます。教義では罪にあたります。偽りで受けても苦しくなるだけです。そういうわけで、保留とさせていただきます。
新約聖書的に言えば、時が満ちるまで待ちます。

聖書を読もうと思った理由の一つは、キリスト教に関する事柄の真偽を判断するためです。筆者のまわりでも、知識人の書籍でも、聖書にちなんだ記述が多くありました。当時、聖書の大まかな内容は知っていましたが、なぜそうなるのかという詳細や文脈までは分かっていませんでした。それでモヤモヤしていました。そこで思い切って読むことを決めました。
今の筆者は、旧約聖書・新約聖書ともに通読しているため、キリスト教については少しは知識があります。この手の惑わしにも、何も知らない人よりは耐性があるでしょう。
キリストの名を用いて正しくないことをする者もいます。神父による幼児虐待が有名ですがそれ以外にも数多くあるでしょう。思い上がる、自分を教祖のように祭り上げる、脅してものを買わせようとする、オカルトや呪術まがいの儀式をするなど。
読んだお陰で、彼らから身を守ることができています。このことは感謝してもし切れません。

また、この教えに関する者にも、さまざまなタイプの人がいることにも気付かされました。
リベラル派、東洋の教えと組み合わせる者のほか、福音派に固く立つ者に、聖書の内容に固執する研究者もいます。
果ては、宇宙人や黙示録の陰謀論と組み合わせる信者や、グノーシス主義と結び合わせる者もいました。あえて誰かは言いません。
筆者は、信仰形態ごとにとやかく言う気は全くありません。保守的な信仰形態(福音派・改革派など)を拒みません。また、近代以降の学問を踏まえて考慮された神学体系も拒みません。彼ら通りにうまくやってくれればよいと思っています。

もし筆者が中世ヨーロッパに生まれたならば、文字通りに信じていたでしょう。しかし、近代以降に生まれたなら、そうとはいえません。
中世から近世の移行期に起きた、宗教戦争や自然科学の勃興によって、教義の絶対性が揺らぎ教皇の力が落ちることになりました。
その後の発見や哲学も、ことごとく神話を解体していきました。聖書批評学・比較宗教学・心理学・カント・ニーチェ・実存哲学などです。また、真理とは人格を持った存在かどうかも定かではなくなりました。もはや、キリスト教だけが例外的真理とは言えません。
だって、現代のこの国で、どれほど信者がいますか?歴史上、ほとんど浸透しなくても、ここまで社会を運営してきたではありませんか。本当にダメなら、とっくに滅んでいました。

ここで、今の筆者の立場を整理してみます。
・内容を文字通りに受け取らない
象徴的に意味を読む。イエスのみが唯一の救い、とは言い切れない。処女懐胎・復活を事実とは取らない。
・排他性を拒否する
他宗教の真理可能性を否定しない。
・内容は、信仰共同体内部の宣言である
信仰や教義は、共同体を維持するための考えとも言える。
・東洋の教えにも目を向ける
自我の解体、神を仮定しない論理。生まれ変わりや永遠の命もこれを踏まえて考える。
・世界は単純な二項対立だけで説明できない
善と悪。神と悪魔。罪と救済。主観的には二項対立だが、客観的にはそうではない。

ここまであれこれ書きましたが、内容は間違いではありません。ただ、書いてある内容が文字通りでなければならないわけではなくなっただけです。
救いの体系は非常に強固です。語り口もかなりの説得力があります。さすが、2000年以上、現在でも影響力を持ち続けると感心しました。
実際、筆者も読んでいて、染まりかけました。さも真実のように捉えそうになりました。

実のところ、「象徴的に読め」というのは、後の代の解釈です。
宗教共同体としては非常に強固で健全な流れです。曖昧な宗教は、歴史の試練の中では直ぐに消えてしまうからです。
人生の危機において、明確な答えと絶対的意味と救済方法が記されています。
イエスの奇跡の物語を信じておけば、何が遭っても(もし危機に陥った場合でも)絶対に大丈夫、という確信が得られます。

実を言うと、彼らは正しいのです。しかし、彼らだけが正しいわけではありません。
ちなみに、聖書自体が詩歌や比喩を多く用いています。そのため、文字通りに読むというのは正しいとは限りません。
では、彼らは変わらないといけないのか?違います。そのままでいいです。彼らにとっては真実です。その信仰によって彼らが生きられるのだから、それでいいんです。あれこれ言わず、受け入れましょう。
大事なのは、その人がどう変わったかです。心の内面でも、実際の行動でも。
これは相対主義ではない。実存的な安全の確保です。
筆者も読んでからは、かなり多くのものを得ることができました。この点は感謝してもしきれません。

これ以降、このテーマでは書くかは分かりません。
ただ、これは言えます。
最も大切なのは、 「どこに属するか」ではなく、 「どう読み、どう生きるか」です。
というか、これ、ここに書いてしまって大丈夫なんだろうか?大目玉を食わらないかしら。

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