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これはもう、五月革命が生んだエディトリアルデザインだ

家庭医学書というと、どうしても堅くて、実用だけが求められる本という印象がある。生活のトラブルに備えるための、いわば「つまらないほどまじめな本」。

LE LIVRE DE LA SANTÉ 1 (1967)


ところがこのシリーズは違う。ページを開いた瞬間に、「なんだこれ」と思わず声が漏れるほど、図像が美しい。抽象画のような科学図版、色の沈み込み、紙の乾いた質感──これは、いざという時に本当に“実用的なの”と思うほど、静かに美しさが先に立っている。


そしてページを開いていくうちに、ゆっくりと気づく。この美しさは偶然ではなく、1968年の五月革命の風が、家庭医学書にまで静かに流れ込んでいることに。 権威や常識がゆるみ、科学・教育・美術の境界がほどけた時代。その空気が、図版の構成や色彩の選び方、紙の質感にまで沈殿している。

科学図版でありながら、どこかポスターアートのような余白とリズムを持ち、細胞や物質の図像が、説明ではなく“風景”として立ち上がってくる。

そして、もう一つのポイントがある。細胞の図像を見ていると、どこか“宇宙の果て”を覗いているような感覚がある。いま、細胞に無限を感じる人など稀だろう。しかし、1960年代の科学文化は、ミクロの内部にこそ無限を見ていた。『ミクロの決死圏』の世界観が、この一巻の図像に静かに重なってくる。


その時代には、科学文化とアフロフューチャリズムは、 同じ「宇宙=精神の拡張」として静かに交差していた。
サン・ラ・アーケストラが見ていた宇宙は、差別の外側にある「ここではない別の場所」だった。しかし、その宇宙観は、意外なほどアカデミックで、精神の内部に広がる領域として構築されていたことをあらためて感じる。

この一巻の“内側の宇宙”も、その感覚と静かに響き合っている。この感覚は、化学側から見た『メディアはマッサージ』であり、バックミンスター・フラーの“構造としての宇宙”にも通じる。ミクロとマクロを同じスケールで扱う、1960年代特有の科学とメディア思想──その空気が、この家庭医学書に静かに沈殿している。

だからこの本は、家庭医学書の皮をかぶった“科学のアートブック”として成立してしまう。

宇宙と生命の素材を、ミルトン・グレーサー級の視覚言語で描いた異常な一巻。フランスの秀才坊やが、SF映画のような図像に胸を躍らせながら読む本──その像が、静かに、確かに立ち上がってくる。


LE LIVRE DE LA SANTÉ 10 (1968)


奇妙だ。奇妙するぎる。家庭医学書のはずなのに、ページを開いた瞬間から、気持ちが揺れる図像が次々と現れる。
マクルーハン『メディアはマッサージ』を初めて開いたときの、意味ではなく刺激で読む構造がそのまま立ち上がる。

ボクサーグローブをはめた手が顔面を殴る写真が全面にレイアウトされ、酔った父親が帰宅するユーモラスな絵本の引用が続き、交通事故で潰れた車と負傷者の写真が挿入される。どれも医学的説明ではなく、精神の外側で起きる“衝撃”をそのまま並べた図像である。


さらにページをめくると、モレノ博士によるサイコドラマのシーンが現れる。感情を演じ、役割を交換し、精神を外側に出すための治療法。続いて、模範的な精神病院の詳細な写真レポートが挿入される。清潔な廊下、規律、共同生活──精神が制度の中でどのように管理されるかが静かに可視化されている。


極彩色のポップアートが突然あらわれ、読者は一瞬その意図を測りかねる。
隣にはモノクロのストリート写真が静かに置かれ、人工の色彩と現実の質感がぶつかり合う。そしてキャプションを読むと、それが消費文化が青少年へ与えるささやかな警句だったことがわかる。


外側からの衝撃、内側の演技、制度による管理。これらがひとつの巻の中で唐突に並べられていること自体が、すでに「編集の奇妙さ」を語っている。家庭医学書の形式を借りながら、内容はまったく医学書ではない。意味ではなく刺激で読む構造は、マクルーハン『メディアはマッサージ』を初めて開いたときの感覚に驚くほど近い。

もっといえば、フランス語がわからないという“言語不能”の状態のほうが、この編集の衝撃をより強く感じられる。はずだ。言語が理解できないことで、図像の配置、写真の唐突さ、ページの構成がそのまま身体に届く。
未知の本を開いたときの、あの「浴びる読書」がすぐさま立ち上がる。

二巻目の奇妙さは、いまではほとんど見かけなくなった種類のもので、ページをめくるたびに、ここだけに残された読書の気配がそっと立ち上がる。
そしてその奇妙さを感じることこそが、この一冊を成立させることになる。 それは、フランス人が母国語の医学書として読んだものを、言語の届かない私たちが図像の衝撃だけで受け取るという、別の読書のかたちをそっと示す一例でもある。

LE LIVRE DE LA SANTÉ 13 (1968)


一日の流れは速く、一年もまた静かに過ぎていく。その時間の中で、青春期はいつも少しはかない。

三冊目は、思春期と老いという、人の時間の両端を扱う巻だ。
シリーズのなかでももっともポップな色彩が前に出ていて、ページをめくるたびに、1968年という若者の時代の空気が立ち上がる。


その中心には、17歳前後の若者たちのインタビューが置かれている。最初に現れるのは、パリで見習いパティシエとして働くジル・Dだ。見習いとして働きはじめ、母に連れられてレコード店へ行き、エレクトリック・ブルースを聴き、大きなセーターを着て、女の子にどう話しかければいいかわからない。そして、彼は言う、彼女たちはときどき自分を嫌な気持ちにさせる。その揺れは、思春期という時間の手触りそのものだ。

続いて、パリで家政婦として働くオディール・L。14歳で学校を中退し、農場で農業労働者として三年間働いているミッシエル・M。リセ・アンリ4世で古典を学ぶエリック・S、父はジャーナリスト、母は弁護士という家庭に育った。
都市、家事労働、農場、知的階層──それぞれが異なる環境の中で、自分の身体と世界との距離を測りながら生きている。

ジル・Dの語りは、この四人の中でもとくに揺れが強い。その構造は、四重人格のジミーとよく似ている。家族、仕事、カルチャー、恋愛──若者は複数の人格を抱えながら揺れ続ける。彼の語りは、フランス版ジミーのように、時代の光と影をそのまま身体に受け止めている。

インタビューのあとに、ビートルズが現れる。そこから人民服の若者の行進、ボディペイント、学校不適応へと続く。若者文化の象徴が、個人の声のすぐ隣に置かれている。世界の大きな波が、ひとりの17歳の身体の中へ流れ込んでくるような編集だ。


この巻は、カウンターカルチャーを現象としてではなく、個人の身体の中で起きたこととして描いている。
ビートルズでも、紅衛兵でも、ヒッピーでもなく、無名の若者の身体に宿った“揺れ”こそが、この本の中心だ。
ページを読み進めるうちに、この本が描いているのは「時代」ではなく、その時代を生きた“ひとりひとり”の若者であることに気づく。その静かな発見が、この巻のもっとも美しい瞬間だと思う。

巻末では、人生の短さを、突然思い出したように、家庭医学書としての体裁がふっと戻る。
健康を謳いながらも、時代の揺れに引き寄せられていく──その編集の妙技と、どこか奇妙な気配が、この一冊の奥行きをつくっている。

そうこれは、家庭医学書の形を借りた思春期の匂いを放つアートブック と呼びたくなる一冊だ。


LE LIVRE DE LA SANTÉ 16 (1968)


フランスで家庭医学の全集を作る──最初は、そんな地味な企画だったはずだ。これはハードカヴァーの立派な全集である。邪推な思いをめぐらせれば、フランスの裕福な家庭の書棚にそっと収まっていそうな本だ。そう考えると、ギャラも悪くなかったのかもしれない。

フィリップ・ノワレのようなお父さん、あるいはフランスの秀才坊やが、ふむふむとうなづきながらページをめくる姿がふと浮かんでくる。

その中心には、当時の雑誌文化を牽引していた Peter Knapp の名前がある。
ページをめくると、、ミルトン・グレーサーが関わった彫刻、ジャック・ロジエが手掛けた技術図版、ウィリアム・クライン〈TOKYO〉の地下鉄が、家庭医学書の文脈の中に突然現れる。医学書という真面目な枠組みの上で、図版で遊ぶことを面白がっている。

パリ郊外のスラム街やリオのファヴェーラ、ニューヨークの貧困地域が並び、そのすぐあとに東京の満員の地下鉄が続く。都市の影を並べているのだろうが、その意図をあれやこれや読み解こうとすると、途端に足がもつれる。


正直いって、フランス語はわからない。だから、この本が何を言おうとしているのか、実のところよくわからない。ただ“生息地”、“航海”、“寝り”──そんな漠然としたテーマの上で、編集者が自由に遊んでいることだけは、はっきりと伝わってくる。

バイクの上で人が寝ている、老人が寝ている、子どもが寝ている。ここまでは、家庭医学書の眠りの図版としてまだ理解できる。そして、小象が寝ている、フラミンゴが寝ている、さらにトカゲが寝ている。
ここまで来ると、それはもう確信に変わる。この本はどこまで真面目なのだろう、と。


ただ、その遊び方は実にスタイリッシュだ。図版の選び方も、並べ方も、余白の取り方も、まるでデザイン誌のように洗練されている。
医学書なのに、医学書のふるまいをしない。科学図版なのに、抽象画のように扱われる。
生活の図像なのに、ポップアートのように配置される。眠りの章に、トカゲ・フラミンゴ・小象が寝ている。そしてその遊び方がニクイほど斬新だ。


すでにある写真や図版を素材として切り貼りしながら、ページの文脈を大胆にずらしていくこの編集の手つきは、クエンティン・フィオーレが『メディアはマッサージ』で示した編集革命と同じ系譜にある。

Knapp もまた、その感覚に魅了された一人だったのだろう。これらを並べるだけで、もう分かる。これは家庭医学書の皮をかぶった「編集の遊び場」であり、その遊びがもっとも露骨で、もっとも美しい形で現れているのが、この16巻だ。

これはもはや、五月革命が生んだエディトリアルデザインだ。



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