ウィーン、グラーツ、オルガン。
オーストリア滞在で最も心を動かされたのは、
ウィーン、ショッテン教会の国際オルガンコンクール。
そして、グラーツ大聖堂のミサ。
どちらも普段は馴染みのない「教会」での出来事。
これらは帰国しても尚、網膜と鼓膜に鮮明に焼きついている。
FSO 国際オルガンコンクール
9月17日朝、ウィーンは快晴。ひんやりとした空気に目が覚める。
郊外のアパートメントからトラムに乗り15分、
目的地はSchottenKirche(ショッテンキルヒェ/Kirche=教会)。
昨朝のこと。夫がぐっすり寝ている中、一足先に目が覚めてしまった。
目的地を何も決めていなかったので、ベッドの中でGoogle mapをあさり、ウィーン国立音大のHPを見ていたら、パイプオルガンの国際コンクールの決勝があるという。しかも、ちょうど明日の朝。
国際コンクール?と思いgoogle日本版で日本語で調べても情報は出てこない。こういうときはドイツ語で検索。(ワクワクする!)
ウィーンといえば、楽友教会、オペラ座。
地球の歩き方でも真っ先に紹介されているスポット。
・・もちろん、私も人並みに「音楽の都で音楽を聴きたい」とは思うが、円安も相まってどこも高い。
しかしこのコンクールは誰でも観覧無料。
「Franz Schmidt Orgelwettbewerb」
フランツシュミットという作曲家の名を関したコンペティションである。
無料でハイレベルな音楽鑑賞ができる、というコンテスタントには忍びない理由をそっと仕舞い込み、背筋を伸ばして教会へ。
扉のそばに「FSO」のチラシが貼ってあるので間違いない。はず。
重い扉を開けると、首が痛くなるほど高い、石のアーチの天井。
陽は入っておらず薄暗い。
ミサの時はぞろぞろと人が入るのだろうか?ずらりと並ぶ木製の重厚な長椅子。
しかし、その手前には「立ち入ることなかれ」と言わんばかりの、人を見下ろすトゲトゲで黒く冷たい柵があり、施錠されている。
私たちが到着したのは9:45ごろ。国際コンクールの決勝(しかも無料)というのだから、人がいっぱいで入れないんじゃないか、と思っていたのに、がらんどう。
ただ、無人の教会にオルガンは鳴っている。柵の手前で聴く限り、ぼやんぼやんと跳ね返り響いて混ざり合うので輪郭ははっきりしないが、コンテスタントが最後の調整をしているのかもしれない。果たして、夫の興味が続くかな?と不安で、「別のところに行く?」と尋ねたが、聴こうと言ってくれた(この時そう言ってくれて、本当によかったありがとう!)。
ちらほらと4、5人、教会の中へ入ってくる。一般客だ。
その中に混じった「mdw」のロゴのトートバッグ(ウィーン音楽大学のロゴ、HPで見た。)を持った人が、どこからともなく現れた教会の事務方?の人に柵の鍵を開けてもらって前方へとずかずか進み、準備を始めた。
「コンテスト実施中、お静かに」という旨の張り紙を譜面台に貼り付けて黒い柵のそばにトン、と置く。

コンテスト、というとその関係者たちがさぞかしピリついた空気を作るものかと思っていたのだが、そうではないらしい。
一般人、と思っていたおじいちゃんが、最前列の審査員席(どたんばで用意した机とパイプ椅子)に荷物を置いて座っている。審査員同士おしゃべりしていてカジュアルな感じ。どうも、誰かが司会をするわけでもないようだ。
機を伺っていた我々だが、開錠された柵の中に率先して、一般のおばさんが入っていった。長椅子に座り、足おき?に足を置く。
それに続いて、おばさん、おじさん、おじさん。続いて私たちも入る。
一応、関係者席と観覧席は適当な赤白のテープで区切られている。
結局集まった一般客は、10人ちょっとだったろうか。
オルガン、どこで演奏するのかな?一番前?ないな?と思いながら首をぐるんと回して見上げると、わあと声が漏れるほどデカいオルガンが背中側、2階に配置されていた。誰が座っているか、そもそも人がいるのか、まではせり出した部分で隠れて見えない。メインオルガン、こんなところにあるのか。
周りをキョロキョロしていると、パイプオルガンがパパパパと音を鳴らし始めた。時計をみると10:12。どうやら1人目の演奏が始まったらしい。
始まって早々、近くの机に目録がバサッと置かれた。一枚そっと拝借して見るに、コンテスタントは5名。
1人3曲演奏する。1曲目はバッハのトッカータ。2曲目は自由曲。3曲目はコンテストの名でもあるフランツ・シュミットのトッカータ。
時間枠からして、1人40分ほどの演奏の様子。
先ほど教会の最後方で聞いた「ぼやんぼやん」とは全然違った。
とても輪郭がくっきりしていて、一人の人間が出しているとは思えない。
全身に響き渡る金ピカの喜劇的な音。
アーチの天井を駆け巡って、私の手元の紙っぺらをビリビリとずっと震わせている。私の髪の毛も服も、何もかもが共振していた。
音が上から、しかも背中側から鳴って響いて包み込まれる、という経験自体が新鮮だった。札幌のキタラでもパイプオルガンの演奏を聴いたことがあったが、U25で上の方の席を安く手に入れていたので聴こえ方はまるで違う。そもそも、コンサートホールの計算し尽くされた上品な響きと、教会の四方八方に拡散して鳴り続ける響きが、全く異なっている。
自然と、花火を見上げるように首を伸ばして、降り注ぐ音を拾う。目線は自然と、教会の最前にある祭壇画の天使たちを見ている形だ(絵ではなくガラスモザイクらしい、気づかなかった)。天使や聖母?それぞれの頭の後ろに金の輪がついている。
選曲は、ピアノ曲などで言われる「超絶技巧」という感じではない。(いや、オルガンだと激ムズなのかも)それに、音の粒が機械のように揃っている、というわけでもない。同じ八分音符でもちょっとずつ長さが違っていたり。
ただ、体験したことのない音量と、オルガンのもつ喜びや希望の響きに、何度も何度も鳥肌がたった。なお、上腕とすねから始まりがち。
いわゆる、寂しい響きの和音だとしても、必ず上位存在の笑みがある。ネガティブがそれを上回ることがない。
前方の天使たちに、ステンドグラスの光が差す。青っぽかった世界が柔らかにオレンジ色になっていく。導かれるように、天使たちの輪が煌々と。
そそぐ朝の陽光、ガラスモザイクの神々しさ、オルガンの猛烈なシャワーに、目頭があつくならないわけがない。
特に、曲の最後の和音がジャーーーーン(レ・ラ・ファ#みたいな)とのびのび、これでもか!!とずっと鳴っている間は、心臓の血液の温度がグッと上がり、体内で圧縮された空気が口から飛び出そうになる。
本当に、一人の人間が鳴らせる音とは思えない。これがオルガンか。
もし、神様と対話できるとしたら、この楽器が必要だ。
世界の重力が徐々になくなって、建物も人も崩壊して全てが宇宙に放り出されるなら、その時は割れんばかりのオルガンが鳴り響いていたらいいのに、と切望させる。そうしたら終わりではなく、救いを感じられるだろう。
私、キリスト教徒ではないけど、自分の葬式はオルガンが鳴ってたら最高の気分かも(死んでるけど)。
1曲目は「パイプオルガン」と言われて真っ先に想像する音(プリンシパル、というらしい)で演奏されていて、2曲目はオーケストラのように色々な音が使われていた。長い笛のような音、ラッパのような音。ストリングスのような音もあった気がする。隣の夫は、笛の音がしたときに、おや?と首を傾げている様子だった。
YouTubeで、この日の曲を探して別の演奏を聞いてみた。
音作りは人によって全く異なり、そこもオルガニストの力量なのだという。審査はそこから問われていたのか・・。
残念なことに、スピーカーを最大音量にしたところで、到底本物の音量にはならないし、あの巨大なアーチで成される響きはコンクリの四角い家ではどうにもならない。些末すぎて、感動のはしっこさえも捕まえられない。
優勝者、決まったらしい。目録では名前は伏せられていたので、誰かわからないが。
そもそも、教会×オルガンというのは至極当たり前の組み合わせだ。
ドラクエで蘇生しに教会行く時は確かにオルガンのBGMだった。
遠く離れても、天使たちの輪があたたかく光り輝くあの景色を、思い出してはうっとりとしてしまう。ネロ、君は最期にいい景色をみたんだな。
かくして私は教会で聴くオルガンというものに心が奪われてしまって、滞在中にまた教会へ行く理由を見つけよう、と決めた。そこで見つけたのが、グラーツ大聖堂のミサだった。
行ってみようグラーツ大聖堂のミサ

前回のヨーロッパ訪問(2年前)でも開かれた教会の中にはお邪魔していたが、「信者でもない私」が長く滞在してはいけなかろう、という思いで、教会の後方からひっそりと入り、立ち止まらずにすぐに退散していた。ミサに行こう、など恐れ多くて考えたこともなかった。
今回は最後方とはいえ、信者たちにならって座っている。
先日のオルガン演奏はもちろん座って聴いていたので、「教会の中で座る」ことへの抵抗はいくばくか減っていた。
他にも、私たちのような外国人観光客が恐縮しながら座っていた。
(ヨーロッパ系の人がカトリック、とはもちろん限らないわけで。)
前方に、敬虔な信者が4~5名。みなおひとりさまの様子。
後方には、そっとお邪魔している我々含め、7~8名。
金曜日の夜。教会の規模からしたら、100人は入るだろうからもの寂しい。
以前からこんなものだったんだろうか、それとも宗教離れか。
グレーの分厚い辞書みたいな本が1人1冊配られて、手元に置いた。
18時。オルガンが響いた。
そして、真っ白に黄緑色の差し色の装束に身を包んだおじいちゃんとおじさん、総勢5名がゆっくり歩み出てくる。司祭さんたちだ。
立つ、座る、などの動作は前方の信者の方々の動きにならった。私の周りの人たちもそうしている。
私たちの2列前にいるのは、どうも、「流れはそこそこ知ってるけど信者ではない」男性と、その友達で「全く知らないけどついてきた」男性。
斜め前には「あまりわからないけど邪魔しないように参加したい」女性。
通路挟んで反対側には、「観光でグラーツにきたカトリック教徒」と思わしき男性2人組。あのおばちゃんも、多分そうだ。
途中、中国人観光客と思わしき家族が後ろをうろうろしていたので、どうかミサの間は静かにして、写真を撮るんじゃないぞ・・とハラハラしてしまった。
言うまでもないが、ミサは信者にとっては大切な時間だ。見せ物ではない。
ただ、「ミサに参加する」と言う行為自体は信者限定のものではないらしく、邪魔をせず、周りに倣っているのであれば問題ないらしい。
司祭さんのありがたいお言葉はドイツ語だし、一番後ろの席まではぽわぽわした音になってとんでくるのでちっともわからない。(「あっいまキリストって言ったな」くらいしか。)
ただ、司祭さんが机の上のグラスやなんかを、決まった手順で持ったり置いたりする所作は、茶道に近いものを感じた。
讃美歌を歌う時間もあった。ハレルヤ、ハレルヤ・・と歌う。ドイツ語でページ番号を指示されたが、わからなかったので見様見真似。
さて、ウィーンの教会でおばちゃんが足おきにしていた部分。ここは、ひざまずいて祈りを捧げるための場所だったらしい。
通路挟んで反対側の「観光でグラーツ来たけどカトリック教徒」な2人の男性が、木の板の上で立ち膝になり、頭の前で両手をぎゅっと握ってうつむいている。真似てみると木の板にはなんのクッション性もなく、体重を支えようとする膝の骨がすこぶる痛かった。しかも、木が軋んでギイギイと鳴るので焦る。
ミサの最後、司祭さんからパンを配られる時間は、我々はじっと待たねばならない。洗礼を受けた信者しか受け取ってはいけないためだ(Geminiで予習した)。
その後、オルガンの演奏が始まり、司祭さんたちが退場していった。
数名、所作を知っている人たちは水で手を清めて(?)アーメン、と十字架を切って挨拶をして退場していく。私たちがそれをしていいのか、はわからなくて、敬意をもって教会を後にした。
もし、神社で、鳥居に入る前と出る時に礼をするようなものなのだとしたら、外国人観光客がそうしていることには好感をもつ。
しかし、神道とキリスト教じゃ根底にあるものが違いすぎるから、早計はできない。
教会を出たら、緊張の糸がほどけた。
ふうーっと息が漏れる。他人のおうちで慣れないことをした感じ。
静かに、静かに、と思ってじっとしてたから力も入っていたのかも。
宗教。人間の面白さそのものだ。
なぜ、大陸間の移動が盛んでなかった時代から、それぞれの土地に「人ならざる上位の存在」がいるのか。
説明しようのないものを説明したかったから。
社会を統制したかったから。 ・・・研究しがいがある。だが、いくら研究されても、答えはわからない。どんな理由も、今ではすべて、あとづけになってしまう。
私たち人間はどんな時代にどんな土地に生まれても「神」やそれに近いコトバを持つ。受け継ぎ、時代に合わせ、変わっていく、この文化。
文化だなんて傲慢だと言う人もいるかもしれない。申し訳ない。全く悪気はなくて、私は外の人間として、宗教に感動している。人間がいなければ「神」というコトバを当てることはきっとなかったのだから。
それぞれの宗教や宗派に流れる血液を、より深く学んでからまた教会に足を運びたい。

・・いや、その前に、まず神道と大乗仏教を理解して、日本の輪郭を自分なりに発見したほうがいいかもしれないな。
ということで、明日は初、伊勢神宮へ。
何百年、いや、もっとそれ以前から、人々が参ってきた場所。清浄な場所。
自分が何を感じ、何を思うのか、楽しみだ!
