照射|結文(ゆいぶん)|あわいの掌編集16
父らの一番長い日:タカネナデシコ(var. speciosus)
父親としての最後の日。それは、実にあっけなく来た。
あの日、はじめて娘の揺らぎを観測してからは、本当に一瞬の出来事だった。人間、年を取ると時間の経過が早いものだな。
妻は、親友のミキと連れだって、いそいそと着付けに出かけた。彼女らは、お互いの子どもたちの結婚式でも相変わらずだ。しばらく戻ってこんだろう。
広い親族控え室には、わたしひとり。静かである。まことにしんとしている。モーニングに着替えながら、一人で感慨に浸っていた。手持ち無沙汰である。そして、落ち着かない。わたしはネクタイの結び目を何度も確認した。上手く結べない。いや、落ち着かない。
◇
そのとき、突然、部屋の扉が開いた。
元・一匹狼(自称)、現・首輪付きの室内犬がのしのし入ってきた。こちらは河原家の控え室なんだが。まあよいか。ワタルも落ち着かないのだろう。わたしの30年来の親友であり、これからは親族となる、婿親だ。年相応に白いものが混じって、配色だけは孤高の狼であると認めてやろう。
「義娘は、自慢の息子と共にあることで、最高に美しくなる宿命らしいな?」
……何のことだ。さっぱり分からん。まったく暑苦しいやつだ。今日ぐらい黙っていればいいものを。
「ケイスケ、この期に及んで、何をしらばっくれている?分類狂のお前が、あの花の亜種間分類だけ気付かないはずがなかろう」
理系は嫌いだと言い張るくせに、こういうときだけ妙に聡い。昔からそうだ。風のように軽やかなくせに、芯はわたしやミキよりよほど構造的だ。
思えば、あの白馬の朝も、真っ先に気付いたのはお前だった。大学時代、四人で白馬岳に登り、台風が過ぎた翌朝。暴風にも豪雨にも耐えた一輪が朝日に当たり、特別に美しく咲いていた。
高山の稜線に登ったカワラナデシコは、風に揺れるうちに、薄桃だった花色が紅紫へと深まり、花びらのフリルもいっそう長く、しなやかに変わっていく。あの一輪も、まさにそうだった。変種名の「var. speciosus」は、「特別に美しい」という意味だ。……もちろん、環境差で形態が揺れるタイプの亜種間の話だ。ようやく迎えたあの朝に、遥かこの日まで予見できるはずがない。
「あれだよ。あの白馬の一輪のナデシコ。風に揺れながら、稜線で楚々として咲いていたやつだ。ああして稜のそばに咲いていたからこそ、特別に美しかったんだろ?」
よりによって今ここで言うか。それは父親挨拶の切り札だぞ。
くだらないやり取りを朋友と続けていると、扉の外から、娘の呼び声が聞こえたような気がした。それは、春の木漏れ日のように静かで、そして凜とした声だった。今までで一番美しいなでしこの姿が、その声の向こうにふと浮かんだ。不思議だ。親友もわたしと全く同じ表情をしている。確証はない。確認もしていない。だが、わたし確信している。あの夏が、わたしたちの脳裏に鮮明に蘇った。
さあ、仕上げの時間だ。
◇
(マイクの前で軽く咳払い)
「……この場ではじめて披露しようとしていた話題なのですが──」
(ちらっと親友を見る)
「先ほど、新郎の父にして、30年来の悪友が、控え室で得意げに語りはじめました。もう、殴ってやろうかと……」
会場に、やわらかい笑いが広がる。
◇
「かつて四人で登った白馬岳で、その花を見たとき、わたしは母さんを心から愛していると気が付きました。そして、『娘が生まれたらこの名を』、そう思いました……」
視界の隅でチラリと妻のミナミを捉えると、柄にもなく盛大に照れている。そして、それを優しいまなざしで見守る高峯夫妻。わたしは30年来の友情をあらためて尊いと思った。そして、君はあの頃のままだ。それは、あの一輪の紅紫の花にも似て、糟糠の妻がますます愛おしく思えた。
「その娘は、稜くんという峰に寄り添い、風の中で揺れ、そして今日、フリルの中で紅紫色に咲き誇る瞬間を迎えました。……植物は、咲くべき場所に咲きます。娘もまた、咲くべき稜線を見つけたのでしょう。
そう、カワラナデシコは、高山変種のタカネナデシコになるのです。『var. speciosus』は、特別に美しい、という意味です。
──撫子、今の君はその花にも劣らず、とても、とても綺麗です」
視界の片隅にぐしゃぐしゃに崩れた妻の表情を捉えた。そして、静かに肩を抱くミキ。ふだんは黒猫のような精密機械なのに、涙ぐんでいる。娘の表情など、もはや言わずもがなだろう。いかんな、声が少し震えてきた。式で咽ぶ花嫁の父など、わたしの美学に反する。何より、悪友に揶揄されるではないか。短く息を吐いたあと、奥歯に力を込める。
「稜くん、子供の頃から息子同然に見てきたが、ほんとうに立派になったな。我が研究室では、引き続き植物生態の探究に励んでほしい。そして、家庭では、雄々しい峰となって揺れる娘を支えてやってほしい。
撫子、君はその稜線の上で、風のままに揺れなさい。それが君の役割だ。
ふたりを心から祝福する。娘も、わたしの歩んできた道も、安心して稜に託す」
胸の底で、父として積み重ねてきた堆積物が微かに軋んだ。
「……ただ、わたしもまだまだ君には負けるつもりはないぞ。
本日ご参集のみなさま、どうか、若い二人をよろしくお願いします」
嵩峯の花は見なかった。今は見られない。咽ぶ顔など──
頭を下げる瞬間、友が泣き笑いのような奇妙な顔をしたのが見えた。「完敗×乾杯」の表情だな。確証はないがそう思った。
“無様な顔だな”
ああ、やつもたまには役に立つ。
“おまえこそな”
辛うじてそれで感情が遅れた。
覚悟しておけ。今宵はとことん付き合ってもらうぞ。あの稜線の風のように、花を肴に一献傾けん。
Endroll
― メッセージカード ―
結婚しました。
高峯 稜
高峯 撫子(旧姓:川原)
カワラナデシコ(Dianthus superbus var. longicalycinus)は、稜線に立ち、風に揺られながら、「特別に美しい」という意味を持つタカネナデシコ(var. speciosus)へと姿を変える。──娘もまた、そうであったように。
― 未来へ ―
式の喧騒が少し遠のいた頃、月の光だけが残った寝室で、妻ミキの小さな声が落ちてきた。
「ねえワタルくん、どうしてケイくんが挨拶をしたんだっけ?」
「物語上、俺だけ見せ場が一度もないって、ケイスケが泣き付いてきたからさ。
稜にも頼まれたし、僕もその方がいいと思った。あの晩は、何度も感謝されたよ」
「そうね。あなたの豊饒の語りでは、きっと場が白けたわ」
「ここまで一緒に歩んでくれて感謝してる。漱石派なのに」
やわらかい月の光が部屋まで届く。両の黒曜石がほんの一瞬翳り、それらがきらりと光り直した。僕はその意味を完全に理解した。
未来が、いやミキが、黒猫のようにぽつりと呟いた。
「そうね。今日も月が綺麗ね」
ふと言いかけて、僕はそっと口を閉じた。
#創作大賞2026 #オールカテゴリ部門 #掌編 #照射 #あわい #わたくさす節 #文学的実験 #植物分類学 #ナデシコ #タカネナデシコ #家族の物語 #結婚式 #家族 #友情 #黒猫
いいなと思ったら応援しよう!
最後までお付き合いいただきありがとうございました。皆様からのサポートは、登山の際の安全装備の調達に使わせていただきます。登山はわたしの創作の源──応援よろしくお願いいたします。