「見てはいけない…」
夜中に目が覚めて、トイレに行くことがある。
その帰り、洗面所に寄るのがいつもの流れだった。
電気はつけない。
暗いままでも、場所はわかっている。
手を洗うだけなら、それで十分だった。
ただ、ひとつだけ。
昔から、洗面所の鏡を見るのが苦手だった。
理由はない。
何かがいるわけでもないし、
実際に何かを見たこともない。
それでも、なぜか。
あの鏡だけは、できるだけ見ないようにしていた。
その日も、いつも通りだった。
鏡を見ないように、少しだけ視線を落としたまま、
手を洗う。
水の音だけが、やけに静かに響いていた。
でも、なぜか——
ほんの一瞬だけ、視界が上にズレた。
鏡が、目に入る。
何も、いなかった。
暗い中に、自分の輪郭だけがぼんやり映っている。
それだけだった。
拍子抜けするくらい、いつも通りの光景。
「気にしすぎか」
小さくそう思って、
少しだけ息を吐いた。
そのまま手を洗い終えて、
蛇口を閉める。
水音が止まった瞬間、
妙に静けさが際立った。
ふと、手元に視線を落とす。
白いシンクの上に、
細い髪の毛が、二本。
一瞬、自分のものかと思った。
でも——
長さも、色も、
どこか違う気がした。
おかしいわけじゃないのに、
なぜか気になった。
その違和感だけが、
妙に強く残る。
さっき、鏡を見た。
そこには、自分しかいなかったはずだ。
それなのに。
自分のじゃない。
そう思った瞬間、
胸の奥がざわついた。
今、もう一度、鏡を見たら——
そう考えたところで、
体が止まった。
顔を上げれば、すぐに確認できる。
それなのに、
なぜかそれができない。
怖い、というより。
見てはいけない気がした。
気づいたら、
そのまま視線を落としたまま、洗面所を離れていた。
