掌編小説 人魚の海 前編
下りの電車は上りに比べ比較的空いていて、ぎゅうぎゅうづめというわけではないけれど、それでも揺れれば周囲の人に軽くぶつかってしまうくらい、乗客はいる。
電車は海沿いの路線を走る。天気や季節によってその色合いを変化させる水平線が、薄い青や紺色になったり、あるいは灰色や黒になったりするのを眺めながらため息をつく。この海を見続けることは、ある種の修行のようでもあった。
僕が降りる駅の少し手前になると、切り立った険しい崖が現れるのだが、そこから時々人魚が飛び降りるのが見える。体が宙に浮いた瞬間はたしかに下肢が存在するのだけど、ゆっくりと水面に落ちてゆくうちに、そのシルエットが次第に人魚の尾びれへと変化するのだ。人魚になれば、溺れることもないだろうし、水中を自由に泳ぎまわれるから、苦しい思いをしなくて済むのだろうか。
あの崖から飛び降りれば人魚になれるという。だから昔からあそこは身投げをする人間が後を絶たない。僕の孤独もまた、海の一部になりたがっているような気がしていた。
目を上げればドアの右横のいつもの場所に彼女がいた。色白の肌、長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳、すっと通った鼻筋、腰まである艷やかな長い髪。中学生くらいに見えるけれど、いつも私服なので、おそらく僕が降りる駅の先にある大学か専門学校に通う学生だろう。毎日茶色の大きなバッグを肩にかけて、オーバーサイズの黒いパーカーを着ている。ぶかぶかな服がかえって彼女の小さく華奢な身体を際立たせていた。
彼女はスマートフォンを見ることはなく、いつでも窓の外の景色をぼんやりと眺めている。空を、水平線を、そして人魚になれる崖を。時折その瞳が哀しい色に潤み、眉間に暗い影が走る。そんな時彼女の視線の先に目を向けると、必ず崖から人魚が落ちてゆくのだ。
おそらくあれは僕と彼女にしか見えていない、在りし日の幻なのだろう。人魚を目撃した日でも、投身自殺があったなんて噂は聞かないから。
ある日そんな彼女をじっと見つめていたら、いつも降りる駅を通り過ぎてしまった。次の駅で彼女はドアの前に立った。僕も慌てて人をかき分けドアに向かう。ようやく電車を降りて周囲を見回すと彼女は階段を上り始めていた。僕もそのあとを追って階段を上り、改札口の手前で小さい背中に向かって声を掛けた。
「あの」
振り向いた彼女が怪訝な表情を浮かべる。けれども、すぐに「いつものあの人だ」とでも言いたげな、安堵を含んだ顔つきに変化した。
「なんですか?」
「あの……、えっと、ですね」
「あなた、いつも同じ車両に乗ってる人ですよね。毎日私のこと見てますよね」
その通りなのだが、そんなことを正直に打ち明ける訳にもいかなくて、なんでもいいから言い訳を捻り出さなければと焦れば焦るほど何の言葉も出てこない。
「あなたはいつも一つ前の駅で降りるでしょう。どうしてここにいるんですか。私に何か用ですか。ひょっとして私のあとをつけてきたんですか」
僕のことを恐れているというよりは、苛立ちを抑えた説教に近い口調だった。
「いや、違います。そうじゃなくて……、君も人魚が見えるんでしょう」
「……はあ?」
どうやら彼女には何も見えていなかったらしい。
あとにひけなくなった僕は、崖から落ちる人魚の姿を必死で説明して、彼女も同じものが見えると思い込んでいたと訴えた。新手のナンパか怪しい宗教の勧誘だと誤解されても仕方がない状況で、意外にも向こうは真剣な眼差しで僕の話に耳を傾けてくれた。何か思い当たる節があるようだった。
「私、その場所に行ってみたいです。噂には聞いてたけど、実際に行ったことないから」
「じ、じゃあ、今度一緒に行きませんか」
安っぽい恋愛ドラマみたいな展開に驚いていたら、彼女はそのあとあっさりライン交換をしてくれて、本当に週末に二人で人魚の崖に行くことになった。そんなに人畜無害で安心安全そうな男に見えるのだろうかと少し情けなくなったが、実際にその通りなのだから仕方がない。
週末、駅で待ち合わせをして、バスに乗り込み、二人で人魚が落ちる崖に向かった。彼女はやっぱり黒いぶかぶかのパーカーを着ていた。座席に二人並んで腰掛ければ、袖から覗く白くて細い指が視界に入る。子供みたいに小さな手だ。
彼女の名前は一之瀬カナン。ハーフでもないのに、親の好みでカタカナの名前をつけられたものだから、小学生の時はそれが原因でずいぶんとからかわれたらしい。僕と同い年で、いつも降りる駅近辺のデザイン専門学校に通っていると言った。
「あなたも学生なんでしょう?いくつなんですか」
バスに揺られながら彼女が尋ねる。
「君と同い年です。A大学に通ってる。一之瀬さんはどこの高校だったの?」
「私はここの出身じゃないの。高校を卒業して、家族でこの町に引っ越してきたから」
「どこに住んでたの?」
「海の見えないところ」
そう言うとカナンはふいと窓の外に視線を向けた。
こんなドラマみたいに謎めいたことを言う女の子が実際にいるのかと少し感心するのだが、でもカナンなら、絵本から出てきた妖精だと名乗ったとしても、全然違和感なく受け入れられる気がした。むしろ納得してしまうくらいだ。それほど儚げな美しさを放っていた。言葉や態度はきつくても、全身から滲み出る寂しさのようなものが、僕の心を強く掴んで離さなかった。
バス停で降りて背の高い木が鬱蒼と生い茂る暗い道をゆっくりと歩く。湿り気を帯びた潮風が頬をなで、かすかに磯の匂いがした。やがて視界が開けて薄い水色の空が現れたかと思うと、数メートル先で地面がなくなり、その先には優しさを失った海の色が広がっていた。辺り一面に響き渡る恐ろしい波の音を聞いていると、この先はもう水で満たされているのだと改めて気がついて足が震え出す。
「柵も、何もないんだね。これじゃあ……簡単に飛び降りれるね」
カナンが呟いた。二人でおそるおそる崖の下を覗き込めば、岩に打ちつけられた波が砕けて白く泡立っていた。
「ここって自殺の名所なんでしょう?」
「うん。潮の流れが複雑で、……絶対に遺体が見つからないんだって」
「いつから人魚になれるなんて噂がたったんだろう」
「さあ……俺はずっと地元にいるけど、よくわからない」
繰り返し繰り返し響く大きな波の音が二人の沈黙を許していた。
「私の、お父さんね」
カナンは海を正面に見据えた。
「私が子供の頃に死んじゃったの。……どうせ死ぬのなら、ここから飛び降りれば良かったのにね」
「どうして亡くなったの?」
「たくさん借金があって、……大変だったみたい」
それ以上何も言わず、遠くを眺めた彼女の目に映る海はきっと、限りなく暗く重い、深い紺色なのだろう。
その時カナンの身が海に向かっているように見えて、僕は咄嗟に彼女の腕を掴んだ。二人の視線が空中でぶつかる。
「危ないから。……落ちたら、どうするんだよ」
ここから、落ちたら。その言葉を放っただけで背筋が震えた。僕を海に引き寄せようとしているみたいに、彼女の身体は硬く動かなかった。パーカー越しに触れている腕は、ぞっとするくらい細いのに。
「ねえ、あなたはいつも私を見てるけど、私のことが好きなの」
潮風でなびいたカナンの髪が僕の頬をかすめた。海の匂いがした。
「……わからないけど、多分、そうだと思う」
「私と付き合いたい?」
「……うん」
「じゃあ、……私のこと好きだって、証明して」
「証明?」
カナンが僕の胸にそっと手を当てた。そしてその指は徐々に上に向かって移動し、ついに硬い喉仏を探り当てた。
「うん。どこにも行かないって、約束して」
