【剣道×美学】剣道は棒の格闘技にあらず。スポーツは炎であり、剣道は地鎮祭である。

※インカレサークル発足後はこんな感じの武術や武道、格闘技談義ができたらいいなぁと思います。

美学というのはどちらかといえば俗語のほうの美学という意味に寄ってるところがあるものの、剣道について語っていきたいと思う。


剣道のざっくりとしたルール

剣道というのは使う用具は知っている方も多いかと思うが、剣道の決着はどのようにつくかということは知らない人も多いであろう。

ざっくりとしたルールとしては、大きな四角形の試合場の中で戦い、先に有効打突を2本とってしまうか、相手から1本リードした状態で時間切れになることで勝利となる。

有効打突とは?

ここではひとまず抑えておいて欲しい部分をピックアップする。

有効打突とは面、小手、胴、突などに十分な強度で竹刀で攻撃し、なおかつ正しい姿勢で十分な気勢がそろったさいに有効打突として3人の審判が自分の色の襷の旗を2本以上あげることで有効打突として打突を指示することを表明することでポイント、つまり一本となる。

そのため、ペチッ!と当たったくらいでは一本にならないし竹刀は刀を表しているので誰がどこからどう見ても刀ではない使い方をしていれば当然一本にはならはない。

(残心と呼ばれる攻撃後の構えなおしの動作は重視されるものの、基本的には当たった瞬間に旗は上がるため残心をきちんとしなかったために一本を取り消されても文句は言えないというところである)

 要するにちゃんとした構えでちゃんと強くバコーン!と打突してもよい防具のある部位に命中させて「メン!」、「コテ!」などの発声がなければポイントとはならない。

剣道というものはイメージとしてはフェンシングのように武器を使うものの、ボクシングのラストラウンド終了後の判定やフィギュアスケートの得点のように構成の出来栄えも求められる特殊な環境にある。格闘技畑の人や格闘ファンはまずここに驚かれると思う。

有効打突という概念は何を生み出すか?

フェンシングは一定の圧力が加わればポイントとなるが、その点で剣道はあまり厳密ではないように思える。

じっさいに、厳密な強度というのは電子制御がいるものであるが剣道では電子制御ではなく審判に委ねられている。そのため完全な公平ということは難しい。

 だがしかし、この審判が判断するという部分により紅白の選手、3人の審判、合わせて5人の剣道家たちに美学が生まれると私は考えている。

 たとえば、剣道で赤の選手が試合場のムードを完全に掴んでいたさいにほぼ同着で白の選手と相打ちになったさいには赤に旗が上がってもまったくおかしくはない。

この状態に対して「審判は試合の展開については考慮せず、よい打突があれば公平に相打ちでもそれ単体として良い方を認めるべき」と考えるかもしれない。

 たしかに、その点は悪い点とも取れるかもしれない。ただ、審判も公平に審判をするという任務中であるからして愛着が赤の選手についたからといって赤の選手をえこひいきするわけにはいかない。

つまり、選手というものは半ば無意識の領域までに自らの勇姿を審判に焼き付けなければならない。

ここで大胆不敵にガンガン攻めて勇ましく戦おうだとかテクニカルに攻めて絶対に相手が思い描いた戦いなどさせてやるものか、おれが全部支配してやるというような形で審判への無意識の領域に対し、味らいに塩が当たれば塩味が否が応でも感じるという当然さを持つほど焼き付けるかという方法が無数にあるわけだ。

剣道の会場で普段は肉食妻帯もありえる剣道家たちの生きる場所は世俗そのものにも関わらず、決勝戦にて思わずまったく話して口元を穢れさせてはならぬと思い込まされるあの神事のごとき荘厳さを出せるのはこのために違いないと見ている。

剣道は戦後のなかで撓競技というニカイア帝国のような状態を経て現在のわれわれの知っている形の剣道として復活したのであるが、ぐんと先祖をたどれば神官にたどり着く。むろん、繋がりは直系ではなく大変に血の遠いものにはなるものの、この先祖返りは興味深い。

 武道館を借りたプロボクシング興行やプロレスリング興行は各地で行われてきており、彼らは燃え盛る熱気を与えてきたように思う。

剣道もボクシングもプロレスも本気であったに違いない。剣道は神事に先祖返りし、ボクシングとプロレスは燃え盛る炎を観客に与えた。そこには求めた美学の違いがある。

 それでいけば、剣道家が「スポーツ」保険、「スポーツ」大会という文脈で言われても、剣道も運動であり余暇を充実させるものであるからと違和感を感じないものの、書く文章や語る口から門外漢とわかる口ぶりで「スポーツ」化と呼ばれたり、ありあわせで教養をでっちあげて古流賛美の引き合いにされたりしたさいに剣道家として嫌悪感を隠せぬのはスポーツは燃え盛る炎の美学であり、剣道は先祖返りした神事の美学であるからとあてはめられるであろう。

古流が奉納演武という神事ならば剣道は地鎮祭のごとき神事である。なぜならば、その後に折りたたみ机や椅子は収納され、聖域であったはずの四角形の試合場のテープは参加者と運営の係の合同で手分けして剥がされ試合会場は体育館であったり日常の武道場に戻るのだから。


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