噂は、いつから人を傷つけるものになったのか―忠告の顔をした言葉について―
それは、忠告のつもりだったらしい。
でも、その言葉は、刃物のように人を傷つける。
噂は、いつから暴力になったのだろう。
かつて、僕はFacebookに、
自分の日常や趣味のことをときどき書いていた。
特別な主張があるわけでもなく、
その日の空気や、心の揺れを、
言葉にして置いておくような感覚だった。
妻の闘病についても、
直接的なことはほとんど書いていない。
病名や詳しい病状に触れたこともない。
ただ、そのとき感じた気配や、
病室の静けさ、
帰り道の重さのようなものを、
遠回しに書いたことはあった。
最初の妻、遥(はるか)のときは、
入院していた末期の頃の病室の様子。
二度目の妻、紗季(さき)のときは、
通院の合間に食事をしたり、
何気ない時間を過ごした記憶。
どちらも、
「闘病記」と呼べるようなものではない。
ただ、その瞬間の自分を、
そのまま置いていただけだった。
亡くなったことについては、
ふたりとも、Facebookのタイムラインで
友人たちに報告した。
ハガキで知らせるよりも、
それが、今の時代らしいやり方だと思っていた。
けれど、
SNSに置いた写真や言葉は、
書いた瞬間から、
書き手の手を離れる。
読む人は、
そこに自分なりの解釈を足し、
見えない部分を想像で埋め、
いつの間にか、
まったく別の物語を完成させてしまう。
それが善意なのか、
好奇心なのか、
あるいは、ただの暇つぶしなのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、
言葉や写真は、意図とは違う方向へ
簡単に運ばれていくこともあるということだ。
「なつ」と付き合い始めて、
しばらく経った頃のことだった。
彼女から、僕についての噂を聞かされた。
僕のいない場所で、
僕の知らない物語が、
すでに出来上がっていたらしい。
それは、
忠告と呼ぶにはあまりにも残酷で、
噂話と片づけるには、
あまりにも人生に踏み込んだ内容だった。
言葉を失う、
という表現が、
あのときほどしっくりきた瞬間はない。
もし、
あなたの大切な人が、
根拠のない噂で傷つけられたとしたら——
その続きを、ここから書きます。
※ここに書いたことは、誰かを責めるためのものではありません。
ただ、言葉が人に与える影響について、
立ち止まって考えるきっかけになればと思っています。
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