上田馬之助のキャリアアップ戦術を検証する~プロレス・ブック考察17
プロレスラーの価値(商品価値)の大きな基準として、「出場試合順」というものがあるのではと思い、試合順を得点化したランキングを作成し、さらに「日本プロレスの最初のシリーズの出場試合順ランキング」なるものも作成してみました。
出場試合順というと、上田馬之助が、それに不満を抱いて、1973年に全日本プロレスを離脱した事件が有名ですね。
それに興味があって、当時の試合順ランキングを作成してみたところ、大変興味深い事実が浮かび上がってきました。
今回はその検証と、上田のその後の見事な「キャリアアップ」戦術について、語っていきたいと思います。
〇上田馬之助というレスラー

上田馬之助は、1961年に日本プロレスでデビューし、「道場での実力者」として名を馳せ、190センチの長身であることからも、将来を期待されたレスラーでした。
アメリカマットでもNWA世界ジュニア王座に挑戦するなど、それなりの実績を積んで、1971年のワールド・リーグ参加のため帰国しました。
リーグ戦での成績は9勝8敗で馬場、猪木、大木、吉村に次ぐ日本陣営5位という、それなりの扱いでしたが・・・
とにかく、びっくりするほど試合が面白くありませんでしたね。
凱旋帰国のジョー・レディック戦は、お互いにキック、パンチを淡々と打ち合ううち、何の盛り上がりもないまま両者リングアウトになるという、大凡戦でした。
実力があっても地味で、試合に表情がない。当時の上田はそんなレスラーだったのです。
ということで次第に、そのランクは中堅どころに定着していきました。
ここで、この年の秋のタッグ・リーグの出場試合順得点ランキングを作成してみると(猪木がフル参戦した、最後のシリーズでした)
〇1971年NWAタッグ・リーグ戦(日本プロレス)
①G馬場268(インター&インター・タッグ王者)
②A猪木252(UN&インター・タッグ&アジア・タッグ王者)
③坂口征二225
④大木金太郎215(アジア王者)
⑤G小鹿180
⑥上田馬之助178
⑦吉村道明168(アジア・タッグ王者)
⑦星野勘太郎153
⑧山本小鉄131
⑨Mヒライ121
馬場・猪木・坂口・大木というトップ勢には届かず、小鹿と共に中堅の軸というのが、上田のポジションだったことがわかります(吉村は高齢で試合数を限定していました)。

暮れに猪木の日本プロレス乗っ取り=追放事件が起こり、上田はそれに深く関与していました。
その影響があったかは定かではありませんが、72年のワールド・リーグでは、5勝13敗で日本陣営7位という成績に終わりました。
7月にジャイアント馬場が日本プロレスを離脱し、大きなポジションが空くことになりましたが、それで上田の扱いがよくなることはありませんでしたね。
再び、秋のタッグ・リーグ戦の、出場試合順ランキングを見てみましょう。
〇1972年NWAタッグリーグ戦(日本プロレス)
①坂口征二195
②大木金太郎165
③高千穂明久153
④松岡厳鉄140
⑤G小鹿109
⑥上田馬之助105
⑦吉村道明94
⑧星野勘太郎93
馬場・猪木が離脱した代わり、凱旋帰国した高千穂(後年のグレート・カブキ)、松岡(いじめ体質で有名なレスラー)に抜かれて、前年と同じ6位に終わっています。
上田は松岡と組んでリーグに出場していたのですが、それでいてこの扱いの差ですから、当時の評価がわかりますね。
しかしここからさらに、上田に不遇な事態が起こるのです。
馬場猪木の離脱で経営難に陥った日本プロレスは、その対策として、日本人レスラーの出場試合数を制限し始めたのです(1試合あたりでギャラを出す
システムだったようです)。
ここで、72年11月、73年1月のシリーズの出場試合順ランキング、並びに出場試合数を出してみましょう。
〇1972年11月~73年1月(全27戦)の出場試合順、試合数
①坂口征二219(27試合)
②大木金太郎173(23試合)
③M斎藤148(26試合)
④高千穂明久138(22試合)
⑤松岡厳鉄110(21試合)
⑥G小鹿101(18試合)
⑦吉村道明85(12試合)
⑧上田馬之助67(12試合)
なんと、上田は全27戦の3分の1の、12試合しか出場できていないのです。引退する吉村と同試合数で、中堅の中でも際立って低い数字です。
つまるところリストラ、お払い箱の一歩手前の状況に、立たされていたわけですよ。
ところが、ここで風向きが変わるのです。
2月のダイナミック・シリーズの最中、日本プロレスと新日本プロレスの合併話が湧き起こるも、大木の反対によって立ち消え、坂口のみが離脱するという、決定的な内紛が起こったのです。
この結果、坂口はUN王座、大木と組んだインター・タッグ王座を失う事態となりました(つまり坂口のタイトルが取り上げられたわけです)。
この事態に日本プロレスは、上田を大木の新パートナーにして、インター・タッグ王座を継がせるという、とんでもない暴挙に出たのです。
〇1973年ダイナミック・シリーズ(日本プロレス)
①坂口征二70
②大木金太郎68(インター&インター・タッグ&アジア王者)
③高千穂明久67(UN王者に)
④松岡厳鉄54(アジア・タッグ王者に)
⑤上田馬之助44(インター・タッグ王者に)
⑥G小鹿41(アジア・タッグ王者に)
上田の起用に積極的な理由があったとは思えません(もしあったのなら、前シリーズまでの扱いはなかったでしょう)。
「とにかくタイトルを坂口から引き剝がせ。そして、誰でもいいから王座を引き取らせろ」という内部処理の問題でしかなかったのです。
UN王座は高千穂に継がせ、松岡小鹿はすでにアジア・タッグ王者になっていたため、余った上田にあてがった、というだけではないでしょうか。
これではもうタイトルの権威もクソもありません。場当たりも極まれりで、馬場猪木時代の栄光はどこへやらでした。

ただし、それがどんな都合だろうと、レスラーには、取ったタイトルは自分の「格」だと思い込むところがあるのです。
上田もこの後、インター・タッグ王者としてのプライドを引きづっていくことになるのです・・・
〇1973年アイアン・クロー・シリーズ(日本プロレス)
①大木金太郎38
②高千穂明久35
③松岡厳鉄29
④上田馬之助27
⑤G小鹿25
これが、日本プロレス最後のシリーズの、出場順ランキングです。
(71年のランキングと比べてみてください。、日本プロレスの栄枯盛衰ぶりは悲惨の一語です)
当然ながらこの陣容では持ちこたえようはなく、シリーズ中に全日本プロレスへとの合併が決まりました。
その影響か、大木上田組はインター・タッグ王座を失いました。
理由はどうあれ、大木上田などという王者組が長続きしなかったことには、ホッとしたものです。
6月30日、全日本に旧日本プロレスの残党レスラーが合流した、新シリーズが開幕します。
そしてここでいよいよ、上田が馬場に、扱いの不満を訴える事態が湧き起こるわけです。
まずはこのシリーズの試合順と、出場試合数のデータを見てみてください。

〇1973年サマー・アクション・シリーズ(全日本)
①G馬場163(18試合)
②ザ・デストロイヤー138(18試合)
③大木金太郎130(17試合)
④T杉山125(18試合)
⑤Sクツワダ89(凱旋帰国=11試合)
⑥高千穂明久82(14試合)
⑦M鈴木64(12試合)
⑧G小鹿52(13試合)
⑨M駒49(14試合)
⑩佐藤昭夫48(17試合)
⑪上田馬之助44(12試合)
⑫百田光雄42(15試合)
⑬Mヒライ41(13試合)
⑭松岡厳鉄39(12試合)
⑮大熊元司27(11試合)
何と、上田の出場順得点ランキングは11位という、惨憺たるものでした。
しかも出場試合数も12試合と、中堅では最低水準のもの。
これだけ見れば、インター・タッグ王者としてのプライドがあった上田には、耐えがたい扱いであったことは、疑いないところです。
しかし・・・です。
よくよく考えてみれば、インター・タッグ獲得以前には、上田は日本プロレスでも冷遇されていたわけですよ。坂口の離脱で引き上げられただけのことで。
つまり馬場が特別、上田を非情に扱った・・・とばかりは言えないのです。当時の上田の(元々の)価値が、決して高くはなかったのです。
事実馬場は、日本プロレス組でも、若くてセンスのある高千穂には、それなりの扱いをしています。
地味で、年齢もすでに33歳で、生え抜きでもない上田に対して、馬場が何かを期待することはなかったのでしょう。
とはいえ、上田の方では、一度王者として引き上げられたプライドを、戻すことはできなかったのでしょうね・・・
秋のシリーズで、新インター・タッグ王者となったファンクスに、馬場&鶴田組の挑戦が決まります。
元王者の自分が無視されたことに怒った上田は、全日本を離脱して、渡米してしまい、その第一章が終わります。
〇「まだら狼」への変身
上田は1976年になって、馬場、猪木、そして国際プロレスに挑戦状を送りますが、その中で「馬場鶴田のインター・タッグには是非、挑戦したい」とわざわざ書いていて、王座への執着ぶりが見て取れました。
その結果、国際プロレスへの参戦が決まった上田は、ここで思い切った戦術転換をします。
①髪を染める(当初はまだらの金髪に。後に全面的な金髪にする)
②コスチュームを変える(ロングタイツにする)
③徹底した悪党ファイターに変貌する

今でもレスラーがイメージ・チェンジする時には、この3つを駆使するのですが、それを最初にやって、原型を作ったのが上田なわけです。
この上田の変身・・・①と②については、上田自身のアイディアだと思うのですが、悪役転向については、国際の吉原社長との合作だったのではないですかね。
国際プロレスはそれ以前、シャチ横内というレスラーに「日本人の悪役」をやらせて、話題を呼んだ実績がありました。
上田はアメリカで横内とタッグを組んでいましたから、吉原社長は「上田を
ヒールで使ったら面白い。元々の実力はあるんだから、横内以上のインパクトになる」と、閃いたんじゃないですかね。
その結果は大成功で、地味なレスラーだった上田は、一気にトップレスラーとなり、凶器攻撃でラッシャー木村を倒し、IWA世界王座まで奪取してしまったのです。

〇1976年ビッグ・チャレンジ・シリーズ(国際プロレス)
①R木村96
②M井上87
③G草津81
上田馬之助81
⑤稲妻次郎54
⑥A浜口49
⑦寺西勇47
上田にしてみれば、「してやったり」というところでしょう。
IWA王座の獲得で、中堅のイメージも完全に払拭でき、念願のトップに躍り出たのですから。
そうなると、物事はどんどん進んでいくから、面白いものです。
上田は国際参戦中に、新日本への参戦をぶち上げ、新日本側は「IWA王座を持ったままなら参戦を認める」と通告します。
(新日本が、悪役としての上田に魅力を感じていたことも、事実でしょう)
結果、上田は「負傷により王座返上」というアングル?で、IWA王座を国際に返還しつつ、「負けないままの勝ち逃げで」商品価値を保ったまま、新日本に参戦する道を選びました。
ことの是非はともかく、上田というレスラーが、色々な駆け引きをして、自分のランクを上げていく「フェーズ」に入ったことだけは、確かでしょう。
新日本は上田に、トップヒールのタイガー・ジェット・シンとタッグを組ませるという、最高の舞台を用意しました。
よりにもよって日本人レスラーが、あのシンと合体したということで、「裏切者」として日本中の憎悪が上田に集まりました。
新日本の見事な戦略と言ってよく、国際時代を遥かに越える(トップヒールとしての)大ブレイクとなりました。

以前の記事でも紹介しましたが、坂口の「上田っ!貴様それでも日本人かっ!」という叫びは、当時のファンの憎しみの代弁でしたね。
元IWA王者としての価値に、タイガー・ジェット・シンのパートナーという価値、北米タッグ奪取の実績が加わり、上田の価値は、高騰していきました。
ここで、上田がシンと離れて、単独参戦したシリーズの、出場試合順ランキングを見てみましょう。
〇1978年プレ日本選手権(新日本)
①坂口征二162
②藤波辰巳161
③上田馬之助155
④Hマツダ153
⑤M斎藤148
⑥長州力144
⑦T杉山127
⑧S小林121
⑨剛竜馬105
⑩星野勘太郎103
オール日本人による興行だった、プレ日本選手権。
猪木は欧州遠征のため後半からの出場だったのですが・・・
上田は「狼軍団」と呼ばれたフリー参戦組で、堂々トップのポジションにつけています。
シンと離れても、完全に興行の軸となっていたのです。実に見事なキャリアアップと言えるでしょう。
そうしてついに、上田が全日本に「リターン」する時がやってきます。
全日本に引き抜かれたシンが、上田の同行を訴えたからです。
馬場もそれを認めざるを得ませんでした。

1981年秋に、上田は8年ぶりに全日本に参戦。シンと組んで最強タッグに出場した後、82年新春シリーズに、単独参戦します。
果たして馬場は、上田をどのように扱ったのか。
そのシリーズでの上田の出場試合順ランキングを見てみましょう。
〇1982年新春ジャイアント・シリーズ(全日本)
①J鶴田258
②G馬場249
③天龍源一郎217
④上田馬之助198
⑤阿修羅・原186
⑥M井上176
⑦鶴見五郎170
⑧Pトンガ163
⑨G小鹿145
⑩R羽田138
ご覧の通りの、堂々たるトップ扱いでした。
馬場ももはや、上田のトップヒールとしての格を、認めざるを得なかったのです。
これだからプロレスは面白い・・・と言いますかね。
本人の意識改革と、周りの戦略が噛み合えば、一度はお払い箱にされたレスラーでも、トップとしてリターンすることができるのですから。

上田は1983年7月に、シンと組んでインター・タッグ王座を獲得します。わずか6日後に奪還はされてしまったのですが・・・
「馬場と鶴田を破って、インター・タッグを獲得する」ことは、上田にとっては悲願でもありましたから、万感だったのではないでしょうかね。
かつては場当たり的に巻かされたベルトを、今度はレスラーとしての実力(自らの商品価値)で奪い取った上田は、やはり大したレスラーなのでした・・・
さてここで、特別付録ということで、上田が参戦した1979~1982年の各団体の年末シリーズの、出場試合数ランキングをご覧いただきましょう。
これにつきましては日本人のみならず、外国人レスラーも含めてランキング化しております。
当時のプロレス界の年末興業の豪華さ。当時の序列を数値化、可視化することの興味。
及びその中における上田馬之助の位置づけ。
・・・などを味わっていただければ幸いです。
〇1979年デビリッシュ・ファイト・シリーズ(国際)
①R木村218
②Mストンパー203
③Aスミルノフ201
④M井上193
⑤上田馬之助192
⑥Gジョー189
⑦G草津188
⑧阿修羅・原182
〇1980年MSGタッグ・リーグ(新日本)
①A猪木157
②Sハンセン146
③Aジャイアント144
④TJシン143
⑤藤波辰巳142
⑥Hホーガン139
⑦坂口征二130
S小林130
⑨上田馬之助129
⑩長州力125
⑪ザ・ハングマン121
⑫木村健吾109
⑬Bアレン106
⑭Bバックランド89(後半参加)
⑮Wルスカ88
〇1981年世界最強タッグ・リーグ(全日本)
①Bブロディ143
②Tファンク137
③G馬場134
J鶴田134
DFジュニア134
TJシン134
⑦Hレイス131
⑧上田馬之助130
Jスヌーカ130
⑩天龍源一郎126
ザ・シーク126
⑫阿修羅・原124
⑬Mルーイン119
KKクラップ119
⑮Lヘニング117
〇1982年世界最強タッグ・リーグ(全日本)
①G馬場133
Sハンセン133
③J鶴田132
Bブロディ132
⑤Hレイス126
⑥Tファンク125
⑦DFジュニア124
⑧Dスレーター121
⑨上田馬之助118
Sデストロイヤー118
⑪阿修羅・原116
⑫天龍源一郎113
Rスティムボート113
⑭Jヤングブラッド109
・・・いかがでしょうか。
一言で言って私は「大変に美しい数字の並びだなあ」と思いましたね。
特に80年新日のハンセン146、アンドレ144、シン143という
並び。そして82年全日のハンセン133、ブロディ132という並びには、唸らされました。
「ほぼ同格。でも少しだけ差はつける」
微妙かつ絶妙なランクづけではないですかね。
こんな数字が、ファンの知らないところで動いていたかと思うと、なんだか
胸熱です。
そして、団体は違えど、上田馬之助の「価値」が、だいたい共有されている
ところも面白いです。
ストンパー、スミルノフ、クラップのように、団体が変わるとランクが落ちてしまうレスラーもいたわけですが、上田の場合は「どこに行っても一定の価値が保たれる」レスラーとして保証され、認められていたわけです。
この豪華な顔ぶれの中でもね。
それはやはり、大したことだと思いますね・・・

