偽メシア・偽預言者・偽教師 について
偽メシア・偽預言者・偽教師がなぜ現れるのか、理由から追っていきます。当記事では見抜き方を、聖書と歴史を基に見ていきます。
1. なぜ偽物が現れるのか
一言で言えば「悪い心からきている」のでしょう。
一因として、メサイアコンプレックス(メシア・コンプレックス)が関係すると考えられます。
メサイアコンプレックスとは、自分を特別な使命を負った存在や、「救済者」として、他者を救おうと固着する傾向を指して使われる言葉です。傾向ですので、自らを「メシア」とまではしなくても、当てはまる人は割といると考えられます。
一見すると利他的ですが、自己満足から行動していることが多く、場合によっては性格や方向性が悪い方へ一変する事があります。
こうした傾向は、単純に「自分を特別な存在だと過大に評価する場合」や、「自己肯定感や自己評価の低さからくる場合」もあります。
現代では「自己啓発、スピリチュアル系」で無理矢理、自己肯定感を高めるのが流行していますが、虚構が多く含まれているため、気をつけなければなりません。
キリスト教内でも、明確な根拠がないまま「神から特別な召命を受けた」と思い込んだり、自分を特別な役割に置こうとすることがあります。
これが全てメサイアコンプレックスだとは言えませんが、特別な使命を持つ存在として認められたいという心理と結び付く場合は、注意が必要です。
2. 偽メシア・偽預言者・偽教師
聖書のマタイ24:24で「偽キリスト(偽メシア・偽救世主)」に気を付けるようにあります。
歴史上、メシアを自称する者は確認されているだけで数十名以上は出現しています。
■たとえば、バル・コクバ(自称したかどうかは議論あり)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/バル・コクバ
■シャバタイ・ツヴィ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/シャブタイ・ツヴィ
■ジム・ジョーンズ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジム・ジョーンズ
■世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の文鮮明も、自らをメシア、再臨の主として位置付けました。
■オウム真理教の麻原彰晃も、キリストや救世主的な存在を自称しました。
■幸福の科学の大川隆法も似たようなことを言っていました。
個性の強い人物ばかりを挙げましたが、ここで忘れてはいけないのは、必ずしも大事件を起こすほど極端な人物だけとは限らないことです。もっと小さな規模で、もっといることになります。
したがって、気を付けるのは偽メシアだけではありません。聖書を読んでいれば、自称のメシアはすぐ分かるでしょうし、本人の勘違いであれば途中で気付きやすいでしょう。
そこで次に出てくるのが「偽使徒・偽預言者・偽教師」です [マタイ24:11]。使徒ではないのに使徒を自称する者は初期から複数いました [黙示録2:2]。
古今東西、預言者ではないのに預言者を名乗る者は数多くいましたが、特に、預言者エリヤやモーセを名乗るのが人気です。下記一覧。
■クレタ島の偽モーセ(5世紀中頃):
モーセを名乗り、ユダヤ人集団を扇動して溺死者が多数出た事件。「コンスタンティノープルのソクラテス『教会史』VII巻38章」
https://www.newadvent.org/fathers/26017.htm
■Eugène Vintras(1807 - 1875):
預言者エリヤの再来を自称したとされます。
https://www.patheos.com/blogs/phoenixandolivebranch/2010/10/elijah-but-which-one/
https://en.wikipedia.org/wiki/Eugène_Vintras
■John Alexander Dowie(1847 – 1907):
自らを「エリヤの回復者」「第三のエリヤ」などと位置付けました。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Alexander_Dowie
■Frank Weston Sandford(1862 – 1948):
自らをエリヤと位置付けた人物です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Frank_Sandford
■Roch Thériault(1947 - 2011):
「モーセ」と名乗り、自称預言者として集団内で権威を振るいました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Roch_Thériault
他にも、自称したかどうか確証が取れないものや、資料の信憑性の判断が難しいものを含めると、数多くいます。
現在では、ケニアの方でモーセとエリヤを称したり、仄めかす者が複数いるようです。どうやら「はっきり偽預言を言う者」だけでなく、「預言は言わず預言者のように振る舞い仄めかす者」がいるようです。
厄介なのは、明確な悪意で嘘を付いているとは限りません。本人自身が本当に預言者だと思い込んでいる場合、見抜くのが難しくなりそうです。
ちなみに海外では、天使や天使の生まれ変わりだと自称するのも人気です。
■さて、「司祭・牧師と名乗りたい、呼ばれたい」「先生と呼ばれたい」「神学校に行って権威が欲しい」というのも、悪い心からきているのではないでしょうか。少しでもその欲があるなら、その少し分が含まれるということになります。
悪い心からきていると思った場合は、改めていきたいですね。本心が出ないように隠すのが上手くなるのは、お勧めできません。
それから、「使徒職・使徒的・使徒性」といった新しい職や肩書きを造り、使徒のようになろうとしたり、特別な立場になろうとする心情にも気をつけないといけません。
「なろう」で思い出しましたが、「なろう系」と呼ばれる漫画が流行っていますが、それもメサイアコンプレックスと関連はあります。
これらの悪い欲は、放置していれば現状維持さえ難しいと思われます。下記のように、既に何らかの形で警告がきているかもしれません。
ヨハネの黙示録2:20-21(口語訳)
しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。
偽預言をし、偽りを教え、不品行をさせても、それでも悔い改めるおりは与えられるようです。そこから悔い改めるのは難しいかもしれませんが、可能性がないわけではないということでしょうか。
3. 本物が少なく、偽物が多いか
「偽メシア・偽使徒・偽預言者・偽教師」、これらは名乗りやすさ、成りやすさに応じて、増加するはずです。
たとえば過去を含め、
・偽メシアが100人いたとするなら、
・偽使徒1,200人〜
・偽預言者10,000人〜
・偽教師1,000,000人〜
この数字は適当ですが、教師は成りやすいため、ここでかなり増えると予測されます。
通常では「本物のほうが多く、その中に少量の偽物が混ざっている」と考えがちです。しかし、逆に「本物が少なく、多くが偽物」の可能性も考慮しなければなりません。下記参照
マタイ7:13-14
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
マタイ22:14
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。
上記は「本物の教師より偽教師の方が多い」と直接教えているわけではありません。
ただし、「多数派だから安心」「多くの人が支持しているから本物」といった判断が危険であることは分かります。
上記の聖句を素直に読むなら、初めから多数派を見ていては問題があります。少数派の中から探すのが聖句どおりでしょう。
こうやって御言葉で言われているのに、それでも「見いだす者が少ない」とあるのですから、生半可な信仰では難しいのではないでしょうか。
■話を戻します。
マタイ24:24で「偽キリストたちや、偽預言者たちが起こって、大きなしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」とあるように、偽預言者たちは大きなしるしと奇跡を起こせるため、それだけで「本物だ」と騙される人たちが出るようです。
一方で、黙示録11:6では「預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている」とあります。
これはモーセとエリヤのことと考えられています。モーセとエリヤも実際に奇跡を起こせるため、次の方法で、偽預言者や偽教師を見分ける必要があります。
4. 実の見分け方
マタイ7:15-20
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
上記は偽預言者の見分け方ですが、偽教師・信徒でも同様です。
実の見分け方についてはもう一箇所あります。下記参照
マタイ12:33-36
木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
こちらは、「言葉から実を見分けなさい」と直接的に書いてあります。書いていませんが「行い・態度・品性」なども含むでしょう。
「品性」と聞くと、貴族的な上品さ(実質は上品ではない)を想像しがちですが、そうではなく、福音書の主イェシュアに似ているかどうかです。
「爽やか,穏やか,優しそう,身なりが小綺麗,言葉遣いが綺麗,声が優しい,声が良い,協調性がある」といった基準ではありません。逆に言葉遣いが汚過ぎたり、協調性が全くないのは問題ですが。
だからといって、主イェシュアを全て真似ようとしても、我々とは立場・権威が違うため、態度を含め同じにしてはいけないところはあります。それから、「説教に力強さがある,熱心,博識だから」といった部分だけで判断するのも危険です。
■さて、このような口だけの正論は誰でも言えます。内容を流用すればそれまでで、人工知能でも語れます。ですから、言葉と行動が矛盾していないかも、判断材料にしなければなりません。
時間の経過と共に本性が露わになったり、立場が悪くなった時や、お酒に酔って気が緩んだ時などに本性が出るものですね。
ただ、他者の粗探しばかり上手くなっても、自分の粗をなくせていないなら意味がありません。また、粗探しばかりしている内に、まともな集会が見つからないまま、主が再臨されるかもしれません。
5. まとめ
・肩書きでも、
・人気でも、
・奇跡でもなく、
「実」で見分ける。また、
・何か一部いいことを言ったり、
・寄付など一ついいことをしたとか、
・誰々と交流を持っているとか、
・握手したとか、写真を持っているとか、
そういうのは関係ありません。
終わりに
偽物たちについて見てきました。
騙されないように、「素直で、思慮深く」ありたいですね。
以上
