【ACIM実践】戦場を超えた場所から「夢を見ている者」としてみる —— 赦しの本質とアイデンティティのシフト
コース(奇跡のコース/奇跡講座/ACIM)を学び実践し続ける中で、私たちは幾度となく「心の深刻さ」に捕まってしまいます。
しかし、その深刻さですらも、ただ静かに微笑んでみている「自分」がいることに気づいているでしょうか。
今回は、私たちが赦しの実践を通してどこへ戻ろうとしているのか、そして私たちのアイデンティティがどのようにしてシフトしていくのかについて、改めて深く見ていきましょう。
1. 深刻さを超えた「聖霊の視点」
私たちの内側深くには、この世界のすべてが「虚偽(幻想)」であることを知っている場所があります。
そこは、私たちがコースを通じて学び続けている「聖霊の視点」であり、形而上学的に言えば「決断の主体」と呼ばれている場所です。
そこからみるならば、すべてを包括して微笑んでみることができます。
ちなみに、ここで言う「微笑んでみる」とは、世界を冷笑したり馬鹿にしたりするものではなく、「なーんだ、最初から何の問題もなかったんだ」という、圧倒的な安堵を伴う明晰な視点です。
テキストの第27章で述べられている通り、私たちは赦しの実践を通して「これは自分で自分に行っていることなのだ」(T-27.Ⅷ.10:1)という自覚へと戻っていくことが、私たちに求められているということです。
今まで信じ込んできた悲劇も葛藤も、実は「そういう夢を見たい、そういう体験をしたい」という自らの意図によるものだったと気づくとき、私たちは戦場の真っ只中から、戦場をはるかに見下ろす高次へと引き上げられるのです。
それをコースでは、「奇跡」と呼んでいます。
そして、そのための手段が「赦し」と呼んでいるものなわけです。
2. 決断の主体に戻るという「練習」
コースが教える「戦場を超えたところ」(T-23.Ⅳ)とは、まさにこの場所です。
私たちが赦しの実践において日々行っているのは、この「決断の主体」というクリアな場所に戻るためのトレーニングなのです。
私たちは一日中のほとんど、この場所から彷徨い出ています。
そして 肉体と同一化し、夢の世界のドラマに没入し、自我の思考体系に飲み込まれています。
しかし、そのたびに赦しの実践を通して、明晰な視点へと戻る練習を繰り返さなければならないということです。
中・上級者の皆さんにとって、自我の思考体系を学ぶことは、単なる知識の習得ではないはずです。
自我が「何をしているのか」について形而上学的に理解しておくことは、迷い出たときに「あ、また自我と同一化しているな」と気づき、元の場所へ戻るための強力なナビゲーターとなるということです。
3. 「夢を見ている者」へのアイデンティティ・シフト
赦しの経験を重ねるうちに、私たちは一つの大きな変容を自覚し始めます。
それは、「自分は平安に戻った」という一時的な安らぎの経験を超えて、「この平安な場所(決断の主体)にいる自分こそが、本当の自分である」と自覚されていきます。
そのようにしてアイデンティティのシフトがなされていくということです。
かつての私: 肉体としての自分であり、時々「心の平安」を求める。
これからの私: 「夢を見ている者」としての自分であり、時々「肉体の夢」に迷い込む。
この完全なるシフトこそが、コースの目指す訓練のゴールです。
「肉体としての自分」をいけないと咎める必要はありません。
ただ、気づくたびに「心の決断の主体」としての自分に戻り、そこから自我のドラマを眺めることをしていくのが、私たちがしていくことなのです。
結びに:奇跡とは「思い出させるもの」
奇跡とは、あなたが見ているものは夢であり、その内容は真実ではないと思い出させてくれることを言います。
奇跡は、あなたが夢を見ているということ、そして、その内容は真実ではないということを確立する。(T-28.Ⅱ.7:1)
毎回、決断の主体に戻る経験を積み重ねていくことで、コースの言葉が単なる比喩ではなく、生きた実感として理解できるようになります。
さらには、私たちはそこから彷徨い出ないための練習をしていくことになります。
もしくは、そこにいる自己に常に気づき続ける訓練となっていきます。
というのも、それこそが、私たちが本来の真のアイデンティティなのですから。
本日の実践のヒント:
今日、何か心が波立つことがあれば、一呼吸置いて問いかけてみてください。
「今、私は戦場にいるだろうか? それとも、戦場を超えたところから夢を見ているだろうか?」と。
