悟り、目覚めへの空想、妄想を打ち砕け
体験というものはすべて一過性のもの
かつての自分を振り返るとき、
目覚め、悟り、というものについて、
あるいは、目覚めた人、悟った人について、
ずいぶんと勘違いしていたと気づきます。
そういうものやそういった人に対して自分なりの勝手な幻想を抱いていたということです。
どのような幻想を抱いていたのか?
というと、
目覚めや悟りを一瞥したなら、すべての真実が分かって、すべてのものから解放されて、その後の人生は楽チンに、気楽に、至福の中で生きれるようになるものだと、そんなふうに思っていたということです。
なので、劇的に人生を変えるような一瞥体験を一生懸命に追い求めていたといえましょう。
この今となっては、それがまったくの勘違い、まったくの幻想だったのだということは明白です。
私自身もさまざまな霊的体験、覚醒体験をしてきたわけですが、今言えるのは、体験というものはすべて一過性のものでしかないということです。
もっといえば、どんなに覚醒したような体験をしようとも、その体験すべてが人生という幻想のストーリーの中の出来事であって、それらは「悟り」や「目覚め」とはまったく関係のないものなのだということが今ではよく分かります。
むしろ、「目覚め」も「悟り」も、そんなものなど無いと言うことができるでしょう。
それこそが眠り続けている者たちの妄想でしかないということです。
要は、目覚めた人とか悟った人などいないということです。
この世界は無であり、この世界には誰もいないわけです。
ならば、誰が目覚めたり、悟ったりするというのでしょう。
「目覚めた、悟った」と言っているその人とはいったい誰なのでしょう?
どんな体験をしようとも、そのすべてが幻想の夢の中で起きているだけだと分かるならば、その答えは明らかです。
それは夜見ている夢の中とまったく同じなわけです。
そのように見えてくるならば、むしろ、だれもが、そしてどれもが同じ幻想だというふうに見えてくるということです。
みんな同じ。
どれも同じ。
そして、そのような視点からこの世界の夢を眺めていくことが、私たちが実践していくものであり、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)でいう「赦しの実践」だと言うことができます。
自分が経験しているもの、知覚しているもの、そのすべてを赦していくということです。
どんな体験をしようとも、そのすべてが脚本通りであるならば、私たちは自分が経験しているその人生を受け入れて生きるほかないということです。
それは、ある意味で、この世界が現実だと信じている者たちにとっては絶望感や虚無感を抱かせることになるでしょう。
それゆえに自我はそのことに対抗して、どこまでも空想、妄想の希望を抱かせ続けると言うことができます。
言い換えるなら、空想、妄想の希望が打ち砕かれること、それこそが私たちが真に受け入れていくべきものであるといえましょう。
そして、「目覚め」や「悟り」というものはまさにそういうものだと言うことができるでしょう。
