身体からのサイン。
50歳を過ぎると、身体は本当に正直になる。
朝、目覚めた瞬間に分かる。
目が少しかすむ日がある。
肩が重い日もある。
腰が張っていて、立ち上がるまでに少し時間がかかる朝もある。
走り始めれば、今度は足が小さな違和感を伝えてくる。
若い頃には考えもしなかったことだ。
あの頃は、疲れたら寝れば回復した。
多少の無理は勢いで乗り越えられた。
身体の声よりも、自分の気持ちのほうがいつも強かった。
だから、身体が何かを訴えていても気づかないふりをしていたのかもしれない。
でも今は違う。
身体は毎日のように、小さなサインを送ってくる。
「今日は少しゆっくり走ろう。」
「無理をしなくてもいい。」
「休むことも、前に進むことだよ。」
そんな言葉を、身体が静かに語りかけてくるようになった。
昔なら、その声に逆らっていた。
「まだいける。」
「気合いが足りない。」
「頑張れば何とかなる。」
そう思っていた。
けれど50代になって気づいた。
身体は敵ではない。
自分を止めようとしているのではなく、これからも長く人生を楽しめるように守ってくれているのだと。
そう思えるようになってから、身体との付き合い方が少し変わった。
調子が悪い日は、ペースを落とす。
疲れている日は、思い切って休む。
以前なら「休むこと=負け」だと思っていた。
でも今は違う。
休むことも、自分を大切にするための大切な時間だと思える。
だからといって、動くことをやめたいとは思わない。
波があれば海へ向かう。
朝日が昇れば走りに出る。
それは健康診断の数値を良くするためでもなければ、誰かと競争するためでもない。
海へ向かう道で潮の香りを感じること。
静かな朝の空気を胸いっぱいに吸い込むこと。
季節ごとに変わる空の色や雲の形を眺めること。
走っている途中で顔見知りのランナーと「おはようございます」と笑顔を交わすこと。
そんな何気ない時間が、一日の始まりを豊かにしてくれる。
若い頃は、速く走ることに夢中だった。
距離を伸ばすこと。
タイムを縮めること。
昨日の自分に勝つこと。
そればかり考えていた。
もちろん、それも楽しかった。
でも年齢を重ねるにつれて、「速さ」よりも「豊かさ」のほうが大切になってきた。
少し遠回りをして海を見に行く。
朝焼けがきれいなら立ち止まって写真を撮る。
鳥の鳴き声に耳を澄ませる。
そんな時間が、今では何より贅沢に感じる。
走るという行為は、身体を鍛えるためだけではない。
心を整える時間でもある。
頭の中がいっぱいになった日も、走っているうちに不思議と気持ちが整理されていく。
悩みが消えるわけではない。
でも、「なんとかなるか」と思える。
走るたびに、心にも風が吹く。
だから私は走る。
よく「健康のために走っているんですか?」と聞かれることがある。
もちろん、それも理由のひとつだ。
でも、一番の理由ではない。
僕は、
「健康のために走る」のではなく、
「楽しいから走る」。
その順番を大切にしている。
楽しいから続く。
続くから身体が少しずつ元気になる。
その結果として健康がついてくる。
きっと、それくらいが自然なのだと思う。
義務になってしまった瞬間に、楽しさは少しずつ色あせてしまう。
だから私は、「やらなければならない運動」ではなく、「今日も走りたい」と思える時間を大切にしたい。
50代になって失ったものもある。
体力。
回復力。
無理のきく身体。
でも、その代わりに手に入れたものもある。
季節の移ろいに気づく心。
小さな幸せを味わう感性。
そして、自分の身体と対話する時間。
若い頃には見えなかった景色が、今だから見える。
それもまた、歳を重ねることの楽しさなのかもしれない。
身体は少しずつ歳を重ねていく。
でも、「楽しい」と感じる心まで老いる必要はない。
走る理由は、人それぞれでいい。
健康のためでもいい。
ダイエットでもいい。
大会を目指すのも素敵だ。
でも僕はこれからも、朝の海に会いに行くために走りたい。
心が「今日は走ろう」と動く、その気持ちを大切にしたい。
身体から届くサインに耳を傾けながら。
無理をせず。
焦らず。
一歩ずつ。
速くなくていい。
誰かと比べなくていい。
今日も笑顔で走れたなら、それだけで十分だ。
そして、そんな一日を積み重ねていけたら、きっと人生も豊かになっていくのだと思う。
つれづれなるままに。
― 一走懸命 ―
