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母へのラブレター

母は貧乏くじを引いた。

戦争の時代に生まれ、腎臓を患い、少女時代の多くを治療に費やした。
嫁いだ家が貧しく、姑が心底意地悪で、
夫は船乗りで不在が多く、兄弟姉妹が五人もいた。

夫にだけは恵まれたけど、
なかなか子どもには恵まれなかった。

私の上に、
お姉ちゃんがいたそうだが、
祖母にミシン仕事や畑仕事を強いられたことで、
死産してしまったそうだ。

私が生まれた時、
母は三十五歳だった。
今ならば高齢出産といっても
全然珍しくないだろうし、
むしろ若いくらいだろうけど、
当時は少なかった。

私を産むまでの間の母は、
子どもが欲しくて仕方なかったそうだ。

妊婦が歩いているのを見ると
羨ましくて、突き飛ばしたい気持ちになったと
教えてもらった時、
私は背筋が冷えた。

そんな母が、
私を産んだ時の写真がある。

私たちの住む地域では、
大きな地震が2007年と2024年にあった。
だから、アルバムが残ったことも、
本当はありがたいことかもしれない。
そこに写る私を抱いた母は、
とびきりの笑顔と慈しみの表情を浮かべていた。

長年の夢を叶えた瞬間だったと思う。

子どもは三歳までに、
その可愛さで一生分の恩返しをしてくれるというけれど、
私はそれに当てはまったか怪しい。

母は私をいい子に育てようと必死だったと思う。
私はずっとそれに抗う子どもになった。

家事が出来るように、
外で恥をかかないように、
「しつけ」てくれようとしていたのに。

根気よく外掃除を強いられた記憶がある。
私は、最後まで、やり遂げたことがなかった。

後片づけも当たり前にやらないといけなかったのに、
私は、いつもおもちゃを出しっぱなしにして
祖母に片づけさせていた。

祖母が私を嫌っていたのは
ずっと後になって知った。

おばあちゃん子だったけど、
陰で、私の悪口を言い続け、
その腹いせを母にぶつけていた。
祖母の葬儀の後、
親戚からそんな話を聞かされた。

母は、長く父のお金を受け取ることが出来ず、
ナプキンを買うお金にさえ
困ったと言ったことがあった。

祖母からお小遣いをもらったり
一緒に出掛けた時に
ごちそうしてもらっていたものも、
母に請求がいっていたとは
全く予想もしていなかった。

お母さんごめん。

私がもっといい子にしていたら、
母はもう少し楽に生きられたかもしれないのに。

嫁姑の仲が悪い家は
世の中にたくさんあると思っていたし、
我が家だけが異常とは全然思っていなかった。

それでも、祖母が母に
攻撃をし始めると、
私は決まったように、
喘息の発作を起こした。

家には車もなく、往診も頼めなかった。
母は、発作を起こした私を手押し車に乗せ、
町外れの病院まで連れて行った。

一度発作が起きると、朝まで続いた。
私は母が眠ることも許さなかった。

ずっと、背中をさすってもらって
翌日、私は学校に行かされた。
母は、仕事に行き、
それが当たり前だった。

今から思えば、
私は不登校にならなかったのが不思議なくらいだった。
それは、母の願いが叶った数少ないことだったのかもしれない。

長年イジメを受けていたみんなで、
イジメの首謀者を懲らしめようと
皆で結束した時、
何故か私がリーダーを任された。

授業を多数でボイコットしたこともある。

小さな町で、
私は不良少女のレッテルを張られ、
三つほどしかないお店の一つは
彼女側について、
私は出入りも禁じられた。

学校の先生から何度も電話がかかっていた。
「皆のためにやっていることだから」
と、和解を受け入れなかった私を
母は、受け入れてくれた。
私を責めることは何も言わなかった。

大学時代、
連絡を億劫がった私を心配して
突然部屋を訪ねてくることがあったが、
私は、アパートに入れなかった。

恐ろしい娘だと思うけど、
私は母に会わずに、
母を返したのだ。

母のありがたみを全然わかっていなかった。
せっかく娘を授かっても、
こんな子どもなんて、
かわいそうだったな。
私は今、漠然とそう思う。

私が子供を産んでから
親のありがたみを感じられるようになった。

本当に薄情な娘だったと思う。
子どもへの愛を知って、
初めて親の事も想像できるようになった。

私の初めての子どもは
上手におっぱいを吸えなかった。

私は、必死で、
母乳を絞り続けた。

出産から二週間もたたず、
私の手は腱鞘炎になってしまったし、
産後の体調不良で、大人の喘息を発症していた。

あの時の母は、五十九歳。
今の私よりもずっと年上だけど、
私の代わりにできることは
何でもやってくれたと思う。

必死過ぎて、
その大変さを振り返ることも出来ずにいた。

お母さん、
私は悪い子だったし、
お母さんを責めたし、
とてもたくさん苦しめたと思う。

ごめんねで済ませられないこと
たくさんしたと思う。

定年した父と、
祖母の介護を続けていたよね。
私は、それを一切手伝わなかった。

あんなに虐げられた祖母を
年老いて、弱って
かわいく思えてきたと
あなたは言った。

私は、その言葉を
信じられない思いで聞いたけど、
今なら、少しわかる気がする。

祖母を見送った後、
父と二人になって、
お母さんはしばらく幸せでいられた?

お父さんが良かったから
離婚しなかった。
いつか、私にそう教えてくれたよね。

生まれ変わっても
父と一緒になりたい。
娘としては照れくさい言葉だったけど、
うれしかったし、
羨ましいと思った。

2007年に能登で地震があった時の事、覚えてる?
父が心不全になって
直前に入院してた。

あの時、
運の良さは感じたよね。
私は父を病院に送りながら、
こんな思いは二度としたくないと思ったことを、
今思い出した。

間にあったから良かったんだよ。
父が病院に居てくれて
私たちは本当に助かった。

2023年に、
トラックを頼んで、
いらない荷物を捨ててもらったよね。

もったいない世代の収納は、
気が遠くなるほどの量だった。

十万円かけたけど、
その翌年の能登半島地震の結果、
丸ごと公費解体してもらうことになった。

その時の納屋が、
私の新居のつもりで建てられていたと
解体した後に聞かされた。

私、心底親不孝だった。

私はずっとファザコンだったから、
晩年になって、
父を怒鳴りつける母を
ずっと嫌っていた。

だけど、
能登半島地震が来て、
避難所でコロナになった父を
そのまま置いておけなくなって、
金沢の親戚の家に預けて、
やっと私が合流出来た日、
父が眠れないほど
咳をして、苦しむ姿を知ってしまった。

私は一晩も一緒に過ごせず
救急車を呼び、
即入院になった父を病院において
夜中に帰って来たけれど、
母は、驚くほど深く眠っていた。

一瞬、薄情だなと思った。
父が心配じゃなかったのだろうか、と。
浅はかな私はそう思った。

だけど、母は、こんな状態の父と
何日も一緒にいて、
眠れない時間を過ごしていたのだと
気が付いた時、
私は自分の愚かさを嘆いた。

結局、父は、重症だった。
快方に向かっているように見えたけど、
十日もしないうちに、
この世を去った。

後に、災害関連死と言われて、
私と母は2025年1月の追悼セレモニーにも出席した。

母は今年九十歳になった。

今も一人で生活している。

マイナンバーカードを取りに行くために、
私と出かけたある日、

「あんたがおってこそやね。
いつも頼ってごめんね」

母が私にそう言った。

信じられない気持ちだった。

私は介護施設で十年以上パートをしているけれど、
こんなにしっかりした九十歳が
この世にいるなんて。

しかも、それが、
私の母だなんて。

色々あった。

いいことも、悪いことも。

それは、多分、
これからも続く。

それでも、
私は今あなたに伝えておかなければいけない。

私の母でいてくれてありがとう。

貧乏くじだったと思うけど、
少しずつ、返していくから、
元気で長生きして。

次男が母の事をかわいいといって、
GWに来た時に、
母は見たことのないような
デレデレした笑顔を見せてくれた。

私は母にこの笑顔を引き出してあげることは出来ないけど、

「私がおったからこそやろ?」

そう言って笑いは取った。

母の一人暮らしはまだまだ続く。

私の「危ないと思ったら施設に入れるからね」
の一言を片隅に置きながら。




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