見出し画像

【掌編小説】『Fの回廊(第6話)』

はじめに

本作は、『Fの継承』シリーズのエピソード1(Fの回廊)になります。

タイトル

『忘却の神々(第6話:エピローグ「覚醒信号」)』


本文

視界が、不規則に明滅していた。

かつての「ヘキサ」での覚醒は、システムが最適化された脳内へと直接「覚醒信号」を送り込む、もっとも効率的で不快感のないプロセスだった。

しかし、今のこの感覚はどうだろう。

まぶたの裏側を焼くような不快な熱、耳の奥で鳴り止まない低周波のうなり、そして、肺という臓器が酸素を取り込むたびに生じる、物理的な摩擦。

「……っ、はぁ、はぁ……」

カイは、自分の呼吸の音に驚いた。
それは、あまりにも騒々しく、あまりにも生々しかった。

指先に力を込める。

触れたのは、ひんやりとした硬い感触――コンクリートの破片と、湿った土の匂いだった。

ヘキサに「土」というデータは存在したが、それはあくまで視覚と嗅覚のシミュレーションに過ぎない。

今、指の隙間に入り込むこの粒子の感触は、記述不可能なほど複雑な情報の塊だった。

ゆっくりと上体を起こす。
体中が悲鳴を上げていた。

空を見上げると、そこには「青」があった。
ヘキサの空のように完璧なグラデーションではない。

薄汚れた灰色の雲が混じり、陽光が乱反射して視界を白く飛ばす、暴力的なまでに美しい青だ。

そこは、かつて大都市だった場所のなれの果てだった。

錆びた鉄骨が巨大な肋骨のように天を指し、崩れたビルの壁面には名もなき蔦が這っている。

遠くで、波の音が聞こえた。

それはループするオーディオファイルではなく、潮の満ち引きという、惑星の呼吸そのものだった。

「……カイ」

聞き覚えのある、しかし、これまでよりもずっと「厚み」のある声がした。
カイが振り返ると、そこには一人の男が立っていた。

泥に汚れた麻のシャツを着て、日に焼けた肌をした男。

「ルイ……なのか?」

男――ルイは、照れくさそうに笑った。

その笑顔には、ヘキサの解像度では表現しきれなかった、目尻の細かな皺があった。

「ああ。先にこっちに来て、君を待ってたんだ。システムがシャットダウンされる瞬間、君が最後の一押しをしたのが分かったよ」

ルイが歩み寄り、カイの肩に手を置いた。
その手の熱さに、カイは思わず涙が溢れそうになった。

意識のデータ通信ではない。

物理的な接触による、熱伝導と圧力の交換。

「ソフィアは……彼女はどうなった?」

「彼女は、システムの最後を見届けると言っていた。この世界のどこかに、彼女の肉体も眠っているはずだ。あるいは……彼女自身が、この新しい世界の基幹プログラムになったのかもしれないな」

ルイは遠くの地平線を指差した。

そこには、崩壊した都市の影に隠れるようにして、小さなテントや煙が上がっているのが見えた。

「あそこに、僕たちと同じように『目覚めた』連中がいる。みんな、最初は戸惑っていたよ。空腹や痛みにね。でも、不思議なもんだな。一度この『不自由』を味わうと、もうあの完璧な檻には戻りたくないって、誰もが言うんだ」

カイは、自分の手を見つめた。
十六進法の世界では、彼は完璧な「E」ランクの個体だった。

しかし今、この世界での彼は、ただの、名もない一人の人間に過ぎない。
ランクも、IDも、効率もない。

ただ「存在している」というだけの事実。

「ルイ、一つ聞かせてくれ」

「なんだい?」

「すべてがFになったあと、世界はどうなったと思う?」

ルイは少し考え、それから楽しそうに答えた。

「桁が上がったのさ。15の次は16じゃない。10……つまり、新しい始まりだ。僕たちは、ゼロから数え直す権利を手に入れたんだよ」

カイは立ち上がった。
足元はふらついたが、一歩、一歩、地面を踏みしめる感覚が愛おしかった。

風が吹き抜け、錆びた鉄の匂いと、どこか遠い場所で咲いている花の匂いを運んできた。

それは、計算機には決して解けない、複雑で、美しく、残酷で、希望に満ちた等式だった。

「行こう、ルイ。新しい『0』を書き込みに」

二人は、黄金色の夕陽に向かって歩き出した。

背後では、かつて人類が夢見た「完璧な楽園」の残骸が、静かに風化の時を待っていた。


【完】


あとがき


最後までお読みいただきありがとうございました。

本作は、『Fの継承』シリーズのエピソード1(Fの回廊)になります。

他の創作も順次公開中です。
よければフォローしていただけると嬉しいです。


いいなと思ったら応援しよう!