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フランク・ロイド・ライトの立身術:近代建築における「天才神話」の構築とメディア・エンジニアリング


はじめに:匿名から「ブランド」へのパラダイムシフト

近代建築の巨匠として世界的な名声を確立したフランク・ロイド・ライト(1867–1959)は、その革新的な空間構成や「有機的建築(Organic Architecture)」の哲学によって建築史に不滅の足跡を残した。彼の空間が持つ革新性そのものは疑いを容れない。しかし、彼の九一年にわたる長いキャリアを社会学およびプロモーションの観点から分析すると、彼が単に卓越した設計者であっただけでなく、類まれな「自己プロデュースの達人」でもあったことが浮き彫りになる1, 2。ライトが活躍した一九世紀末から二〇世紀半ばにかけて、アメリカの建築家は一般に、保守的なビジネススーツを身に纏う匿名の専門職として振る舞うことを求められていた。ライトはこの規範を逆手に取り、メディア、出版、スキャンダル、さらには自身の個人的な悲劇までも巧みに用いて、自らを「孤高の天才」として神話化する立身術(the art of self-promotion)を構築した。

現代のマーケティングで「パーソナル・ブランディング」と呼ばれる手法を半世紀以上も先取りしていたライトは、視覚的アイデンティティの意図的な操作、自伝による過去の再構成、タリアセン・フェローシップという革新的な経済モデル、浮世絵ビジネスを介した異文化アービトラージ、そして論争の積極的な煽動という多角的な戦略を展開した。本稿は、度重なる破産やスキャンダルという社会的・職業的な「死」の危機を乗り越え、いかにしてライトが己のブランドを確立し、二〇世紀を代表するスター・アーキテクトとしての立身出世を遂げたのかを論じる。

1. 理論的枠組み——立身術を分析する三つの視座

本稿はライトの「立身術」を、印象論的な人物評としてではなく、三つの社会学的概念を軸として読み解く。これらは、自己呈示・資本転換・カリスマという、彼の実践の異なる次元を捉えるための補助線として機能する。

1-1. ゴッフマンの自己呈示と演技論

第一の視座は、アーヴィング・ゴッフマンの自己呈示(self-presentation)と演技論(dramaturgy)である3。ゴッフマンによれば、人は他者の前で特定の自己を「上演」し、その印象を統制する。本稿が扱う服装の演出、図面への落款、落水荘の「二時間」伝説、グッゲンハイムをめぐる論争は、いずれも舞台裏(試行錯誤や失敗、長期の熟成過程)を遮蔽し、表舞台に「孤高の天才」という役柄を提示する印象管理の実践として理解できる。

1-2. ブルデューの資本転換と場の理論

第二の視座は、ピエール・ブルデューの資本転換論である4。ライトは文化資本(日本美術の鑑識眼や設計の技量)・経済資本(版画売買や設計料)・象徴資本(名声と権威)の三者を絶えず相互に変換した。浮世絵ビジネス、自伝の執筆、チェロキー・レッドの神話化は、ある形態の資本を別の形態へと「アービトラージ」する実践として位置づけられる。

1-3. ウェーバーのカリスマ的支配

第三の視座は、マックス・ウェーバーのカリスマ的支配である5。後述するタリアセン・フェローシップは、合理的な雇用契約ではなく、指導者の人格的卓越への帰依によって労働と収益を組織する共同体であり、カリスマの日常化(ルーティン化)と収益化の事例として読める。

最後に本稿の立場を明確にしておきたい。以下で「神話化」「演出」「再構成」といった語を用いるが、それはライトの建築的達成を貶めるためではない。ゴッフマンが示すように、ペルソナの構築と実質の有無は対立しない。ライトの空間の革新性は本物であり、帝国ホテルの構造的工夫は現に被害を軽減し、フェローシップの「為すことによる学び」には確かな教育的実質があった。本稿が照らし出すのは、その実質と並走しつつ、それを歴史のなかで生き延びさせた「演出」の論理である。

2. 視覚的アイデンティティと「レッド・スクエア」の意匠

ライトの自己プロデュースの最も顕著な特徴は、徹底的に計算された視覚的アイデンティティの構築である。彼は自身の身体的プレゼンスから、図面、書簡、そして建築物そのものに至るまで、一貫したサインシステムを適用し、他者との差別化を図った。

2-1. 服装と身体的プレゼンスの演出

ライトは身長約五フィート七〜八インチ(約一七〇〜一七二センチ)と平均的な体格であったが、周囲の空間を支配するような存在感を放つための自己演出を怠らなかった6。彼はキャリア初期、J・L・シルスビーの事務所で働き始めた頃から、服装と職業的成功の関連を強く意識していた。芸術的成功者としての外見を戦略的に作り上げるため、彼は複数の特注靴で身長を高く見せ、ケープのようにドレープさせたオーバーコートを羽織って上半身のシルエットを物理的に拡張した。

また一九〇〇年代初頭から、オスカー・ワイルドやC・R・アシュビーら芸術家風のゆったりとしたネクタイを採用し、膝下丈のニッカボッカーズにシルクのハイソックス、深く被ったポークパイ・ハットや杖といった特異なスタイルを確立した。これらの装いは同時代人から「クエーカーオーツ(Quaker Oats)」のパッケージのようだと揶揄されることもあったが、ライトは長い白髪や高い糊付けの襟と組み合わせ、威風堂々たる「マスター・アーキテクト」の視覚的装置として機能させた。これはゴッフマンのいう、役柄を支える「外装(front)」の意図的な統御にほかならない。

2-2. 「チェロキー・レッド」と赤い正方形の烙印

ライトのブランディングを象徴する究極のグラフィック・アイコンが「赤い正方形(Red Square)」である。この意匠は一八九六年頃に原型が作られ、一九〇四年以降の図面に一貫して用いられた2。ケルトの十字架やアーツ・アンド・クラフツ運動のルーン文字的影響が指摘される一方、ライトが熱心に収集した日本の浮世絵版画の落款(印章)から直接の着想を得ているとも言われる7。浮世絵の落款が主題に干渉せず構成の一部となるように、ライトはこの赤い正方形を図面や手紙に「承認の証」として組み込んだ。

この正方形の色は「チェロキー・レッド(Cherokee Red)」と呼ばれ、ライトのシグネチャー・カラーとなった。ライト自身はこれを、ネイティブ・アメリカンの陶器や南西部の土壌に由来する大地と生命力の「有機的な色」として語った。だが記録に残る経緯はより散文的である。この色名は、一九三五年型オールズモビルに用いられたデュポン製デュコ塗料の標準色「チェロキー・レッド」に由来する8。ライトはマルコム・ウィリー邸の室内計画の過程でこの自動車塗料の色名を採り、それを「アメリカの土着性」という崇高な物語へとリブランディングしたのである。もっとも、彼がこの色に開眼した契機をめぐっては、アリゾナで入手した陶器の釉薬の色だったとする同時代証言も併存し、自動車塗料の色名と土着の陶器という二つの起源は完全には切り離せない。いずれにせよ、平凡な商業的色名を不滅のシグネチャーへと昇華させた手腕にこそ、象徴的価値の生産者としてのライトの本領がある。

一九五〇年代には、自身の承認のもとに完璧に施工された建築物にのみ、イニシャルを刻んだチェロキー・レッドの陶板タイル(ジャネット・ポーソン・ハーバー制作)を埋め込む制度を始めた。このタイルは、ライトの建築が単なる建造物ではなく天才の「真筆」であることを証する強力なブランド・スタンプとして機能した。同時にそれは、彼の監視が行き届かず「逸脱」した無数の建築物に対する暗黙の批判でもあった。

2-3. 命名法(ネーミング)の魔術

ライトは言葉の響きとブランディングの力に極めて自覚的であった。一八歳で本名の「フランク・リンカーン・ライト」から、エイブラハム・リンカーンを連想させるミドルネームを捨て、母の旧姓ロイドを取り入れて「フランク・ロイド・ライト」という三拍子のリズミカルな名へと改名した1。

また彼は、クライアントの姓で住宅を呼ぶ当時の慣習を超え、自らの作品や概念に神秘的かつ詩的な名称を与えた。「フォーリングウォーター」「ホリーホック」「ウソニアン」「ブロードエーカー」「タリアセン」といった独自の語彙は、バックミンスター・フラーの「ダイマキシオン」に比肩するアメリカのデザイン史上の特異点であり、ライトの思想を教義のように伝播させるパッケージングとして機能した。

3. 過去の再構成と「天才神話」の構築

ライトの自己プロデュースのもう一つの柱は、事実の選択的な編集を含む「自己神話化(self-mythologizing)」である。一九三二年に刊行され後に改訂された『自伝(An Autobiography)』は、自身の人生を天才の寓話として再構成する最大のプロパガンダ装置であった9。ブルデュー的に言えば、自伝は自己の来歴を物語化することで象徴資本を蓄積する装置である。

3-1. 年齢と血筋の編集

ライトは自伝で自身の誕生年を一八六九年と記すが、リッチランド・センターの公的記録によれば実際は一八六七年である10。彼は意図的に二歳若く偽り、若き神童のイメージを誇張した。さらに両親の年齢や父のフルネームまで改め、一九年間絶縁状態にあった父ウィリアム・ケアリー・ライトの存在を自身のルーツの物語から都合よく再編集した。幼少期に母アンナからフレーベルの恩物(積み木)を与えられ、生まれながら幾何学的な建築家になるよう運命づけられていたという有名な挿話も、この物語構築のなかで劇的に強調されている。

3-2. サリヴァンへの反逆と「ブートレグ・ハウス」

ライトは若き日にシカゴの巨匠ルイス・サリヴァンの事務所(アドラー&サリヴァン)でチーフ・ドラフツマンを務めたが、五年間の専属契約に反し、家計を支える副収入として隠れて住宅設計(いわゆる「ブートレグ・ハウス=密造住宅」)を行っていた11。一八九二年のトーマス・ゲイル邸やジョージ・ブロッサム邸に見られるこれらの初期作品は、急勾配の屋根や八角形のドーマー窓を持つクイーン・アン様式や左右対称のコロニアル・リバイバル様式など、当時の保守的な流行を多分に含む一方、水平性を強調する窓の帯や深い軒、中央に配したイングルヌックなど、後のプレイリー・スタイルの萌芽も示していた。

この契約違反が一八九三年に露見して両者は決裂し、ライトは事務所を去った1, 12。のちにライトはこの出来事を「旧套墨守の体制に対する若き天才の反逆」としてドラマ化し、自らの独立を英雄的行為として語り直した。約二〇年の断絶を経て両者は和解し、ライトはサリヴァンから貴重な図面を譲り受ける。彼はこの師弟の断絶と劇的な和解そのものを、自らが真のアメリカ建築の正統な後継者であることを示す神話的挿話として活用した。

4. 異文化アービトラージ——日本美術の流用と浮世絵ビジネス

ライトの立身術において、日本は単なる美学的インスピレーションの源泉にとどまらず、財政的危機を救う「錬金術」として、また名声を再構築するためのアービトラージ(裁定取引)の手段として機能した。これはブルデューのいう資本転換——文化資本と経済資本の往復——の典型である。

4-1. 浮世絵ディーラーとしてのライトと贋作事件

ライトは一八九三年のシカゴ万博で鳳凰殿を見て以来、日本美術、とりわけ浮世絵版画に強く惹かれた。一九〇五年の初来日以降、喜多川歌麿、歌川広重、葛飾北斎らの版画を数千点規模で収集したが、これは個人的趣味にとどまらず、極めて実用的な商材でもあった7。私生活のスキャンダルで設計の仕事が滞り借金が膨らんだ際、ライトは収集した浮世絵を裕福なクライアントや債権者に売り払い、幾度も破産を免れた。設計料より版画売買の利益が上回る時期すら存在した。

しかし、このビジネスは一九一九年に重大な事件を引き起こす。ライトが日本から持ち帰り、アメリカのコレクターや顧客に販売した版画の中に、巧妙な贋作が大量に含まれていたのである。これらは、退色した本物を彫り直して新たな色を上摺りし、煙草の灰で古色を付ける「再生(rejuvenation)」の手法で知られる職人・高見澤遠治(一八七〇〜一九二七)の工房によるものであった7, 13。ライトは高見澤関連の版画一五〇〇点ほどを携えて帰国しており、真相が露見する前に一部を売却していた。この事件は彼の鑑定家としての名声に修復不能な打撃を与えた。ライトは自らを「欺かれた被害者」と位置づけて防御に回ったが、彼自身も販売前に色鉛筆やクレヨンで版画に補彩を施していた事実が知られており、被害者という自己規定をそのまま額面どおりに受け取ることはできない。重要なのは、権威への傷を恐れるあまり過失の所在を他者へ転嫁し、自己の潔白を声高に主張するという危機管理の型を、彼がここでも反復した点である。

4-2. 帝国ホテルと「震災」という最大のPR

日本がライトにもたらした最大のキャリア上の果実は、東京の帝国ホテル新館(ライト館)の設計(一九一三〜一九二三年)であった。ライトは、ニューヨークで東洋美術商を営んだ経験を持つ帝国ホテル支配人・林愛作の推薦を受け、渋沢栄一や大倉喜八郎ら日本の政財界の重鎮が主導する巨大プロジェクトを獲得した14。

だがその建設は困難の連続であった。栃木県産の大谷石や愛知県産の黄色いスクラッチタイルなどの特注素材の多用、照明器具から食器に至る総合芸術(Total Art)の追求により、予算は当初の倍以上に膨れ、工期も大幅に遅延した。ライトの芸術的執念は資本主義の論理と激突し、彼を庇い続けた林愛作は一九二二年に引責辞任に追い込まれた。ライト自身も事実上解任され、愛弟子の遠藤新らに後を託して、ホテルの完成を見ることなく日本を去った。

しかし、一九二三年九月一日の落成披露の日に起きた関東大震災が、ライトの運命を劇的に変える。周辺のレンガ造・石造の建物が次々と倒壊するなか、ライトの考案した「浮き基礎工法(floating foundation)」によって帝国ホテルは——無傷ではなかったものの——倒壊を免れ、相対的に軽微な被害で持ちこたえた14, 15。林愛作や大倉男爵から「ホテルは真っ直ぐ無傷で建っている」という趣旨の電報を受け取ったライトは、これをアメリカのメディアで大々的に宣伝した。実際にはホテルも損傷を被っており、「無傷」という言葉自体が誇張を含む神話の核であった。とはいえ浮き基礎が被害軽減に寄与したことは事実であり、ここでもライトは、現実の技術的達成を核にしつつ、それを「自然の猛威すら計算し尽くした天才エンジニア」という不動の伝説へと増幅させたのである。

5. スキャンダルの転化と自己再生のメカニズム

ライトのキャリアは平坦ではなく、破産、不倫、殺人事件といった、通常であれば社会的・職業的な死を意味するスキャンダルと悲劇の連続であった。彼の立身術の真髄は、これらの危機を「自己再生の舞台」へと転化させた点にある。

5-1. ママ・チェニーとの逃避行と『ヴァスムート作品集』

一九〇九年、四二歳のライトは家庭とシカゴでの成功を擲ち、クライアントの妻であったママ・ボースウィック・チェニーとヨーロッパへ駆け落ちした1。当時の保守的なアメリカ社会において、これはほぼ完全な社会的自殺行為であり、シカゴの社交界から追放され、設計の依頼は激減した。

しかしライトは、この「不遇の逃避行」を無駄にしなかった。彼はドイツのエルンスト・ヴァスムート社から自身の図面集(『Ausgeführte Bauten und Entwürfe von Frank Lloyd Wright』、通称ヴァスムート作品集、一九一一年)を刊行する16。この出版物はル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエら新進のヨーロッパ・モダニストに計り知れない影響を与え、ライトを「アメリカの一地方の建築家」から「世界的巨匠」へと押し上げる逆転の一手となった。国内での悪評を、海外での名声によって相殺する——これもまた象徴資本の地理的なアービトラージであった。

5-2. タリアセンの惨劇と仕事への没入

一九一一年に帰国後、ライトは世間の目を逃れ、ウィスコンシン州スプリング・グリーンに自身とママのための理想郷「タリアセン」を建設した。だが一九一四年八月、ライトがシカゴに出張中、精神を病んだ使用人がタリアセンの居住区に放火し、ママ・チェニーと彼女の子供たちを含む七人を殺害するという凄惨な事件が起きる1。

この耐え難い悲劇に対し、ライトは自死や引退ではなく、異常なまでのエネルギーを仕事に注ぐことで自己を立て直した。タリアセンの再建に着手すると同時に、シカゴの「ミッドウェイ・ガーデンズ」や東京の「帝国ホテル」といった巨大プロジェクトに没頭した。この惨劇を境に彼の様式も、水平基調のプレイリー・スタイルから、マヤ文明などに影響された重厚で防御的なスタイルへと変貌する。

ここで分析の対象とすべきは、悲劇そのものではなく、ライトが事後にそれをどう語り直したかである。彼は『自伝』や公の発言において、廃墟からの再建を「タリアセンの復活」として物語化し、喪失の経験を不屈の意志という公的なペルソナの一部へと編集した。すなわち、出来事そのものの道具化を断定するのではなく、ゴッフマンのいう自己呈示の水準で、語りがどのように構成されたかを記述するにとどめるのが妥当である。こうした再構成を全面的なシニシズムで読むことには慎重でありたい。タリアセンの歴史家キーラン・マーフィーがフェローシップについて述べたように、ライトが人々を利用した側面は否定できないとしても、関与した者たちが何も得ずに去ったわけではなかった17。悲劇からの再起もまた、計算と切実さの双方を含む営みであったと見るのが穏当である。

6. タリアセン・フェローシップ——教育・労働・収益のハイブリッド・システム

一九三二年、六五歳のライトは大恐慌と長引くスキャンダルで仕事が枯渇し、深刻な経済的危機に陥っていた。ここで彼は、三番目の妻オルギヴァナの提案を受け、生存とブランド維持のための革新的なモデルを立ち上げた。それが「タリアセン・フェローシップ」である18。

6-1. 経済循環システムと労働をめぐる両義性

フェローシップは、世界中から集まった若き建築志望者(アプレンティス)がライトと共に生活し、実践を通じて建築を学ぶ共同体であった。一見すると高邁な教育理想(learning by doing)に基づくが、その実態はライトにとって極めて有利な経済システムでもあった18。創設された一九三二年の学費は年額六五〇ドルで、大恐慌下では決して安くない額であった19。学費は後年になるにつれ増額され、たとえばウィリアム・ベルヌーディは遺産を投じて年一〇〇〇ドル超を支払っている20。

アプレンティスは一日数時間の建築の学びだけでなく、建設作業、農作業、調理(ローテーション制)、掃除に至るあらゆる労働を無給で担った。ライトは大恐慌期に有給のドラフツマンや使用人を雇う代わりに、自らに学費を払って労働を提供する献身的な労働力を確保したのである。裁判記録によれば、このシステムにより財団は運営経費を差し引いた後で年間およそ一万二〇〇〇〜四万ドルの純利益を計上し、農場からの現金収入や学費収入がライトの生活と活動を支えていた21。ただし公平を期せば、無給労働という搾取的側面と、第一線の巨匠の現場に身を置いて学べるという教育的実質とは同時に存在した。後年に活躍した数多のアプレンティスにとって、この経験が代えがたい修練の場であったことも事実である。

6-2. オルギヴァナとグルジェフ的統制——カリスマの組織化

この共同体の規律と運営を実質的に取り仕切ったのは妻オルギヴァナであった。モンテネグロ出身の彼女は、パリ郊外フォンテーヌブローの神秘思想家ゲオルギイ・グルジェフの「人間の調和的発展のための研究所」で学んだ経験を持っていた18。過酷な肉体労働、自己修養、舞踏や音楽のパフォーマンスを通じた意識の覚醒を説くグルジェフの手法を、オルギヴァナはタリアセンに移植した。

週末の正装でのディナー、娘イオヴァンナの指導による音楽とダンスのフェスティバル、日々の徹底した労働のローテーションは、単なる建築教育を超えた一種の精神的結束を生み出した。若者たちはライトを教祖のように崇め、有機的建築の理念を内面化していった。これはウェーバーのいうカリスマ的支配が、儀礼と日課によって日常化(ルーティン化)され、同時に収益基盤へと転化した事例にほかならない。この無償かつ献身的な労働力と収益がなければ、ライトが晩年にこれほど多くのプロジェクト(落水荘やグッゲンハイム美術館など)を設計することは不可能であった。一九五九年のライトの死後も、オルギヴァナは一九八五年に引退するまでフェローシップの絶対的指導者として君臨し、レガシーの維持と収益化を厳格に管理し続けた。

7. 神話のパフォーマンス——落水荘とグッゲンハイムにおける「天才」の演出

ライトの立身術の完成形は、メディアと論争を利用した作品の神話化にある。彼は建築を単なる物理的構造物ではなく、自らのヴィジョンを世に問う「パフォーマンスの舞台」として活用した。

7-1. 落水荘(フォーリングウォーター)の「二時間」伝説

エドガー・カウフマンのために設計されたペンシルベニア州ベア・ランの「落水荘」は、ライトの天才性を決定づける伝説に包まれている。伝承によれば、カウフマンが突然タリアセン訪問を電話で告げてからわずか「二時間」の間に、ライトはそれまで手をつけていなかった図面を魔法のように描き上げたとされる22, 23。

ライト自身が「袖口から建物を振り落とすように設計する」と豪語したとおり、彼はこの伝説を大いに利用した。だが実際には、数か月にわたり敷地の地形や地質(ポッツビル砂岩など)の調査が行われ、彼の頭の中で長期の構想と熟成が進んでいた。彼はカウフマンの「滝を眺める家」という要望をあえて超え、滝の真上にコンクリートのトレイをカンチレバー(片持ち梁)で張り出させる劇的な提案を行った。ゴッフマンの語彙で言えば、ライトは「試行錯誤する労働者」という舞台裏を遮蔽し、「霊感に満ちた天才」という表舞台だけを観客に見せたのである。このパフォーマンスは一九三七年の『Time』誌の表紙や一九三八年のニューヨーク近代美術館(MoMA)展を通じて世界に拡散し、大恐慌下で低迷していたライトのキャリアを劇的に復活させる起爆剤となった。

7-2. グッゲンハイム美術館——論争をプロモーションに変換する手法

晩年の傑作であり、メディア操作術の集大成といえるのが、ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館である。一九四三年の契約から一九五九年の完成まで実に一六年を要したこのプロジェクトは、絶え間ない闘争の歴史であった24。

非具象絵画の推進者であり東洋とキリスト教を融合した精神修養に傾倒していた初代館長ヒラ・ルベイから「精神の神殿」の設計を依頼されたライトは、慣習的な美術館建築を真っ向から否定する「らせん状の逆ジッグラト」という前代未聞の案を提示した。この設計は各方面から猛反発を受けた。ニューヨーク市の建築基準法に抵触し、審査委員会との承認闘争が何年も続いた。後任館長ジェームズ・ジョンソン・スウィーニーや多くのアーティストは、傾斜した壁面では絵画がまともに展示できないと激しく批判し、この建築を「洗濯機」や「巨大なマシュマロ」と揶揄した。

通常の建築家ならクライアントや行政の要求に妥協する場面で、ライトはこの摩擦と論争をメディア利用の好機と捉えた。彼はヨーロッパ起源の機能主義(ル・コルビュジエやグロピウス)を激しく批判し、自らの「有機的建築」こそ真の芸術だと主張した。グッゲンハイムをめぐる論争は、「凡庸な官僚主義や保守的な芸術界に一人立ち向かう孤高のヴィジョナリー」という自己像を大衆にアピールする最高の舞台装置だった。結果として、彼の死から半年後の一九五九年一〇月に開館したこの美術館は、展示される美術品以上に「建築そのものが最大の芸術作品」として機能する、現代のスター・アーキテクトによるスペクタクル建築の先駆けとなった。なお、曲面壁での絵画展示という批判には一定の妥当性があり、論争はライトの一方的勝利ではなかった——にもかかわらず、彼はその論争自体をブランド資源へと転化したのである。

結論:近代建築におけるパーソナル・ブランディングの到達点

ライトの九一年の生涯を精査すると、彼が建築という物理的メディアを超えて、情報・物語・シンボルを駆使した高度な「メディア・エンジニア」であったことが理解できる。本稿の枠組みに即せば、彼の立身術は次の三つの戦略的支柱に整理できる3, 23。

第一に、記号的同一性の確立である。「レッド・スクエア」、ポークパイ・ハットやケープ、チェロキー・レッドの神話化、独特の命名法など、一目で彼とわかる視覚的・言語的アイコンを徹底運用し、建築の枠を超えた強固な「ブランド」を築いた。これはゴッフマンのいう「外装」の統御による印象管理である。

第二に、資本と労働力の独自の錬金術である。浮世絵取引による危機回避から、学費を払って労働を供するフェローシップの構築まで、大恐慌やスキャンダルを乗り越える経済システムを自己完結的に作り上げた。これはブルデューの資本転換とウェーバーのカリスマ的支配が交差する地点に立つ。

第三に、対立構造の煽動と自己神話化である。自伝による過去の再構成に加え、権威(行政、国際的モダニズム、保守的な芸術界)との対立を恐れるどころか意図的に惹き起こし、マスメディアを通じて自らを「誤解された天才」として語り直すことで、不滅のオーラを纏った。

本シリーズで論じたミースやル・コルビュジエと同様、ライトもまた、作品の質とは半ば独立に作動する自己呈示の体系を築いた点で共通する。だが彼に固有なのは、破産・不倫・放火殺人という破滅的な出来事すら、その事後の語り直しを通じてブランドの資源へと組み替えた、危機の資源化の徹底ぶりにある。スキャンダルや悲劇を回避すべき負債としてではなく、神話を強化する物語的原資として扱った点に、ライトの立身術の際立った特異性がある。

ライトの建築空間が持つ根源的な魅力と力強さは疑いようがない。ここで強調すべきは、ペルソナの構築と作品の実質とが対立しないという点である。彼の作品が歴史の淘汰を生き延び、今日まで神格化され続けている背景には、彼自身が構築した「フランク・ロイド・ライトという壮大な演出」が、建築と同等かそれ以上の強度を持っていたという事実がある。彼の自己プロデュースの手法は、建築家が自身のアイデンティティを市場に提示する現代の「スター・アーキテクト(starchitect)」システムの原型であり、その意味でライトは、建築空間のみならず「建築家の社会的ペルソナ」をも設計した、二〇世紀最大のイノベーターの一人であったと結論づけられる。


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