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2月某日 雑談がわからない

 雑談。皆気軽に言うが、一体それは何なのか。辞書を開くと、

  とりとめのない談話。よもやまの話。

岩波国語辞典 第七版

とある。よもやまは「さまざま。雑多。(同上)」のことらしい。つまりどういうこと……? と思った方は次の引用を見てほしい。

  話題を決めずにあれこれ気ままに話すこと。その話

角川学芸出版 類語国語辞典

 なるほど、話題のない話という意味か。意味を知るのは簡単だ。しかし、これは会話全体を示す言葉であって、部分部分は必ず繫がっているのが会話というものである。
 たとえば、「リンゴは赤いよね」と言ったあとに「ゴリラはバナナが好きだよ」なんて返しは基本しない。「うん、花は白いのにね」とか「さくらんぼも赤いね」など何かしら関連する事柄を返すだろう。
 私はこの、部分部分で起きる連想ゲームが苦手なのだ。正確に言うと、連想ゲームの正解がわからない。連想するものはすぐに思いつくのだが、たいてい自分が面白いと思ったことしか脳にはストックされていないために相手の思うテーマから外れてしまう。興味が合致していないとよく起きる現象である。
 ただ、興味が合致していても会話は続かない。既知の物事を語るときは、相手の言ったことを言い換えるくらいしか新たな言葉が生み出せないからだ。例に挙げた会話のように、当たり前のことしか言えない。仲が良く、人格もわかっている間柄であればコミュニケーションの一つとして取り入れることもできるが、すべての会話が既知の物事というのもまあまあつまらない。
 少し前に、「会話を手段ではなく目的として使っている」と指摘されたことがある。パートナーと離れて暮らしていたときのことだ。この頃は、敢えてそうしていた。たまにしか顔を合わせないと、体調や感情を知るためには、会話が大きな指針となっていたからだ。今どう思っているか、短い時間で察知し、会っている時間だけ楽しく過ごせるように努力する。
 同居した今は逆に喋りたいときにしか喋らない。独り言のような言葉は口に出すが、返事は期待せず、情報伝達だけしっかり会話する。同じ空間にいれば自然とどのような体調か察せるからだ。大体、毎日を過ごすのに相手のことばかり気にかけていられないというのもある。ということで、他人と話すのと同じく、会話は目的から手段へと変化した。
 TRPGが好きになったのも、会話を手段として使っているからかもしれない。深く掘り下げるために会話をしながら考えたり、知らないことを教え合ったり。旅人が商人と情報交換するような、手段としての会話が好きな私にとって、何も得られない話を延々とするのは苦痛に近い。
 雑談を持ちかけてくる人間は、たいてい目的として会話を用いているのだろう。実際の天気や弁当の中身はどうでも良くて、無言の時間をなくしたり、仲を深めようとしているのだと思う。前者は理解できるのだが、後者はなかなか難しいことのような気がする。私の性格にも起因しているのだが、未知の物事にしか興味が湧かないからだ。なかなか噛み合わないわけである。雑談に対して何を求めているか。それだけで話し方も聞き方も変わってしまい、食い違うのだ。

 ちなみに、善し悪しを決める意図はなく、純粋に難しいなと思った、というだけの話である。目的としての雑談についてはこれから考えていくつもりだ。

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