フロッピーディスクと海を越える借金
ようやく1階の店頭業務を一通り覚えた頃、僕は業務の幅を広げるために、2階にある「外為(がいため)」の窓口にも座るようになった。そこは、1階の怒号や現金機の音が響く喧騒とは無縁の場所だった。
飛び交うのは「エルシー(L/C:信用状)」「ユーザンス」「ビーエル(B/L:船荷証券)」といった、英語の専門用語ばかり。
デスクには英英辞典と、緑色の文字が光る専用端末が鎮座している。
そこはハイカラというより、どこかエキゾチックで、アジアの湿った熱気と海の匂いが混じっているような、不思議な空気が流れていた。
S先輩の英語と、走ってくるお客さん
その係の中心にいたのは、S先輩という女性だった。
パリッとしたシャツを着こなし、海外からの電話にも流暢な英語で応じる。
受話器越しに響く彼女の英語は、夜のカラオケで歌うマライア・キャリーそのままで、滑らかで心地よかった。
そして、僕が担当の手伝いをすることになった輸入卸会社の経理担当者さんも、印象的な人だった。
「おはよう! レートどう?」
毎朝、彼女は階段を駆け上がり、息を切らしてカウンターへ走ってくる。
「今度ね、イタリアの工場に行くことになったのよ」
目を輝かせてそう語る彼女からは、海の向こうと繋がっている仕事特有の、大らかな空気が漂っていた。
数字と印鑑の相違ばかりを気にしていた僕にとって、彼女たちが醸し出す「海外取引の楽しさ」の片鱗に、少しでも触れてみたいと思った。
借金の「変身」と、終わらないリレー
彼女たちの仕事についていきたくて、僕は必死でその会社の商流を追った。
そこで見えてきたのは、優雅な海外取引の裏にある、泥臭く、長い資金繰りの現実だった。この会社は、株式や不動産を山ほど持つ資産リッチな企業だった。
けれど、本業の儲けはカミソリのように薄く、バランスシート(貸借対照表)は売掛金や在庫でブクブクに膨れ上がっている。いわゆる「カネ回りの悪い金持ち企業」だ。S先輩は、端末を叩く手を休めることなく、早口で教えてくれた。
「いい? この会社の資金は、輸入してから現金になるまで、リレーみたいに繋がってるの」
まず、海外から商品を呼ぶために、銀行がL/C(信用状)を出して支払いを保証する。
モノが港に着いても、まだ売れていないから金がない。だから「輸入ユーザンス」を使って、銀行に支払いを立て替えてもらう。
ようやく国内の大手量販店に売れても、支払われるのは「3ヶ月後の手形」。
だから今度は、ユーザンスを返済するために、その手形を担保に金を借りる。これが「ハネ手貸」だ。L/Cから始まり、ユーザンスへ、そして手形貸付へ。
一つの商品に紐づいた借金が、次々とその形を変え(ハネ)ながら、半年以上もの長い時間をかけて、ようやく現金に化ける。
その全工程を、銀行が「合算極度」という与信枠の中で支え続ける。
「すごい……。こんなに長く、銀行が伴走してるんですね」
僕が呟くと、S先輩は画面から目を離さずに呟いた。
「輸入与信は、現金化までが長くて大変そうよね……」
「厳しく見たら、潰れちゃいますよ!」
商流がわかると、財務の意味も見えてくる。
ある時、この会社の格付(自己査定)で、本部から冷たい電話がかかってきた。
「おい、この会社の資産査定、甘いんじゃないか? 不良在庫をもっと減額しろ」
僕は知っている。なぜ在庫が膨らんでいるのか、なぜ回収サイトが長いのか。
その背景にある、大手販売先からの無理な要求と、それを飲み込んで商流を守ろうとするお客様の苦労を。
だから、僕も守りたかったんだ。僕は受話器を握りしめ、つい、本音を漏らしてしまった。
「だって! そんなに厳しく減算し過ぎたら、債務超過になっちゃいますよ!」
電話の向こうで、審査役が絶句し、その後に烈火のごとく怒鳴り声が響いた。
「お前はアホか! 結果ありきで査定してどうする!」
S先輩は横で呆れたようにため息をつき、また無言で仕事に戻った。
フロッピーディスクの「虎の巻」
外為の仕事が面白くなってきたものの、とにかく複雑で、教科書がなかった。
会社ごとに商流が違い、輸出の書類作成などは、一文字のスペルミスも許されない。
お客さんからのFAXは、訂正印(通称・チョッパー)でいつも真っ黒だった。
もっとスマートに仕事をしたい。そう思った僕は、ある夜、禁断の行動に出る。
取引先ごとのL/CやB/Lの現物コピー。先輩たちが書き溜めた秘伝のメモ。それらをカバンに詰め込み、自宅へ持ち帰ったのだ。(※今はNGですが、当時は監査で見つけられても減点あるか、という程度の牧歌的な時代でした)
夜な夜な、自宅のパソコンに向かい、Excelに打ち込む。
A社の輸入ユーザンスの期日管理、B社の輸出書類の特約条項。
商流ごとのカネとモノの流れを、図解入りで体系化した。
保存した媒体は、3.5インチのフロッピーディスク。カシャッという軽い音が、妙に心地よかった。
数週間後、完成した『外為取引先別・完全攻略マニュアル』を、恐る恐るS先輩に見せた。
彼女は、僕のマニュアルをパラパラとめくり、目を丸くした。
「あんた……これ、凄いじゃない。これなら誰でも仕事を覚えられるわ。」
会社に入って初めて、心から褒められた瞬間だった。
「落ちこぼれ」だった僕が、少しだけチームの役に立てた気がした。
それは単なる事務整理ではなく、僕なりにお客様のビジネスの「流れ」を理解しようとした、その姿勢が届いたのかもしれない。
安室奈美恵と、消えたフロッピー
その夜、課の打ち上げで行ったカラオケ。
S先輩が得意の安室奈美恵を絶叫し、マライア・キャリーを歌い上げるのを聴きながら、僕は安堵のビールを飲んだ。
いつもより、その歌声が優しく聞こえた気がした。
あれから四半世紀。あのフロッピーディスクは、もちろん手元にない。
Excelのマニュアルも、きっとデジタルの波に飲まれて消えてしまっただろう。
けれど、あの夜なべして作った行間には、間違いなく僕の青春と、仕事への目覚めが詰まっていた。
SWIFTを飛び越える夢と、泥臭いコンプライアンスの壁
時代は変わり、DXのカンファレンスに行くと、ステージ上のスピーカーが目を輝かせて語っている。
「ブロックチェーンで即時決済を」
「仲介者をなくし、手数料をゼロに」
確かにその通りだ。技術的には正しい。
だが、外為窓口の現場を知る僕は、その美しすぎる未来図に、少しだけ違和感を覚えることがある。
「カネは瞬時に飛んでも、モノとヒトはそうはいかない」
外為の本質は、単なる送金ではない。
「海の向こうからドンブラコとやってくる荷物」と、「まだ見ぬ相手への信用」が複雑に絡み合った、人間臭いドラマだ。
かつて僕らが、L/Cのスペルミス(ディスクレ)を血眼になって探した「間違い探し」。そこには今、「アンチマネロン(AML)と経済制裁チェック」という、さらに高度で重い「人探し」も加わる。
AIが怪しい取引を検知しても、最後に判断するのは、結局のところ人間の目と経験だ。それでも、時代は確実に動いている。
個人的に、デジタル通貨以上に背筋が伸びる思いをしたニュースがある。
Wise(ワイズ)が、資金移動業者として初めて全銀システムに接続。銀行だけが持つことを許された聖域「全銀システム」の扉が、ついにノンバンクである外国企業に開かれた。
彼らは高らかに宣言する。
「仲介者を排除し、コストを削減する」
その言葉を聞いた時、この複雑で泥臭い外為の世界に、海の向こうから強力な味方がやってきてくれたのかもしれない、と感じた。
聖域の扉は開かれた。
もはや、バンクもノンバンクも垣根はない。
あの頃、僕らがチョッパーとフロッピーで必死に繋いだ「海を越える信用」のバトンを、デジタルの彼らが受け取り、さらに加速させてくれる。
あの階段を駆け上がってきたお客様の笑顔を、より増やすために。新しい景色は、もう始まっている。
