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試論:聖霊と肉体と罪について(1)

あまり整理できていないのですが、おおよそ私たちが悪魔から誘惑を受け、自ら罪を犯しにいく過程というのは、以下の通りであろうと思うのです。

まず私たちに神への不敬という歪みが罪故に生じ、神に逆らう肉の思いが生じます。
そこで、この世において生じる危害、不利益を思い、続けて不安を覚えます。
その不安には、はっきりしたものもあれば心の影に隠れているものもあるでしょう。
神の下にあれば不安など生じ得ないのですが。
そこで私たちはその不安を解消するべく、悪魔からの誘いに応じ肉の思いを自発的に増幅させます。
その時点で肉の思いは聖霊を求める思いを凌駕しているのです。

ここまできてから神に祈って立ち止まれるかどうかは意見が分かれるのかもしれません。
個人的にはそれは難しいと思うのです。少なくともその一つ手前の不安を差し込まれた時点で「私が本当に求めているのは何であるのか、お憐れみの故にお示しください。」と、御名を通して祈る他は無いような気がします。

そこで立ち止まれなければその先は一通り罪を犯し、肉の喜びを充足してから後悔して祈り、立ち返らせていただくといったコースを辿ることになるのと思うのです。

なるべく実例に則して、具体的な表現を試みようと思います。

1.
アダムは何にも増してイブに好かれたいという心の隙=歪みがありました。従わなければイブから嫌われるという不安を抱くということを悪魔は知っていました。そのアダムを誘ったのは、見目麗しい果実とイブその人でした。このダブルパンチはアダムを見事にノックアウトしました。
2.
兄弟姉妹の敬称に「先生」をつけることは聖書に反していると指摘を受けると不安を覚えます。それは実際にその通りであるのに信仰が歪んでいたために無批判に受け入れてきたからです。しかしそこで心に覚える。「それは秩序を守るために必要なのだよ。」「原語ではラビ、先生とは違うのだよ。」この肉的判断に安心を覚える。更に心は語る。「そいつは秩序を破壊する異物だ。排除しろ。」それは如何にも正しいことのように思われた。
(※「ラビ」と「先生」はニュアンスがとても近いです。要はその人を介しなければ神の御心を知ることができないという万人祭司時代には存在し得ない特殊な立場を指します。)
3.
男性である私は女性のセクシャルな画像を目にする。時に「サボり気」から自分の奥底に女性に依存する欲望を覚える。その時点で歪んでいる。肉的には正当だが、霊的には悪である。その歪みを肯定してしまうと呆れるほど呆気なく力の逆転が起きる。多くの姦淫の罪と時間の浪費が生じる。その時の自分を取り巻く環境は、肉の罪に堕ちた見られる側の他者と、同じく堕ちた見る側の自分があるのみ。そこには同じ肉をもつ者としての失敗者が勢揃いしている。

ちなみに、3に関して思うのは、救われた者として異性に対し肉的な見方をするなら、そのことは常に批判に晒されなければならないということです。
それを肉として「良し」として認めた時点で肉の拠点は築かれています。
そういう訳で私は「女性を綺麗な花のように見れば姦淫を犯さない」という意見には同意できません。
そのような主張をする人は、嘘つきであるか、まだ己というものが判っていないのです。
女性の造形的美を認めるにしても、見入ってはいけません。
「美」というものは確かに存在しますがそれは表面的です。本質ではありません。
もしその背後にあるものの基質が無害であれば、それは良いものですらあります。
しかし迫り来る溶岩の流れに魅了されて佇む人は分別が失われているのです。

性欲そのものは罪ではないとする意見が多いようですが、肉体を肯定すれば神に逆らうことに歯止めはかかりません。
いや、そんなことは無いなどという人は嘘つきです。どこかで意志で押さえつけているはずです。
己を知る者は肉欲は必ず神に逆らうという真実に突き当たります。
ただしそれらの欲に対する分別は、それぞれにおいて異なるのです。承認欲求、食欲に性欲、これらは同じではありません。それぞれ聖書から読み取らなければなりません。
それでは神がデザインされたこの体が神に逆らうのか、と問われたなら答えは然りです。
ただしそれは原罪とセットになっています。
善悪を知らなければ肉体が罪として認識されることはなかったのです。
既に善悪を知っているのだから、どの様な理屈を重ねても「神の御前に正しい肉欲の解放」なるものは見い出せません。
また自慰行為の是非が聖書に書かれていないというのも誤りです。ガラテア5:17などにあります。
これに関しては改めて別の記事で言及することになるかもしれません。あまりに低レベルな問題でありながらも先に進むためには放置もしておけないからです。

自由の在り方を履き違えてはなりません。
我々の真の自由はただ聖霊を通して与えられるのです。
肉欲の解放のもとでは聖霊は働かれません。

私の見るところでは、肉欲の解放を謳う人たちというのは、心理学者C.G.ユングのいうところの「統合」を目指しているようです。
その視点において、彼らの主張には一貫して正当性があります。
しかし、どんなに統合してみたところで罪は消えないのです。

話を戻しますと、以上三つの失敗例を見てきましたが、いずれも肉的には「まさに」好ましいことです。
しかし神との関係には深刻な影響を与えてしまうのです。

ついでに或る真実について言及させてください。
(世的な判断=肉の価値基準)と(神の価値基準)とでは、様々な事柄において逆相関であるということです。
肉が強まれば聖霊の働きは無くなります。罪を押し隠したこの世の正義は神から憎まれます。
個人的には、その真実は求道者時代からしっかりと伝えておくべきだと思うのです。

肉の欲求が絶頂期の若者やその周辺の人たちに、不品行の罪、姦淫の罪を犯さないためのアドバイスがあるとしたら、早く結婚しなさい、と言うほかはないのかもしれません。
先に触れた通り、それらの罪は肉的には大正解なのですから。
もし、それを意志の力で無理やり押さえつけ続けたならば、肉からのとてつもない反撃に遭う羽目となるでしょう。
その説に反論する方は余程性欲の穏やか方であるか、さもなければ余程の嘘つきでなのではないでしょうか。

もし、”可能性があるとしたら”、御名を通してこう祈れば良いかもしれません。

『神さま、私はセックスしたいです、オナニーしたいです。しかしこれが本当に私が心の内でしたいと願っていることなのでしょうか?どうか本当に私がしたいと願っていること、あなたが私に求めておられることを、お憐れみの故に、私にお示しください。』



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