「俺は弁護士、俺は弁護士……」――SOHO HOUSEで感じた所在のなさ
以前、ポッドキャスト「百百」で、SOHO HOUSEについて話している回を聴いたことがある。
聞いていた印象としては、こうだ。
働く場所ではない(コワーキングスペースではなく、PCの使用制限もある)
社交のための場所(同業者や異業種が集まり、食事やお酒、会話を楽しむ)
ステータスの高い人たちの集い(海外のクリエイターや起業家、富裕層)
へぇ、そんな世界があるのか…別世界の話ってやっぱり面白いななんて思っていた。
自分自身、そもそも懇親会というものが苦手だ。
例えば、グラスが空いたら飲み物どうですか?と切りださないといけないだとか
相手の話に適切にリアクションしないと…だとか
自分の面白エピソード出さないと…だとか
そんなことを考えて疲れてしまう。
疲れた顔した人がひしめき合う電車に揺られ出勤し
会社の飲み会すら難癖をつけて断ろうとする自分のような人間が関わることはないだろう――そう思っていた。
ところが、ひょんなことからゲストとして足を踏み入れる機会があった。
「俺は弁護士…俺は弁護士…」
実際に行って最初に受けた印象としては、洗練されたラウンジという感じだった。
ただ、日本のホテルやラウンジにありがちな「距離を置いた丁寧さ」とは違い、スタッフの対応はどこかフランク。
「Hi」と声をかけてくるカジュアルさがある。
そこにいるSOHO会員たちの人種も多様で、話す言語も、佇まいも、服装も、日本の普通のカフェとはまったく違っていた。
何より、隠しきれない裕福さ、何者かではある感じが滲み出ていた。
スーツや高級時計はステータス性に対する防御壁なんだろう、と悟った。
ユニクロのTシャツで入ってしまった自分としては、どこか所在なさげになってしまった。
こういうときに便利だと思う。
「俺は弁護士、俺は弁護士……」という念仏。
弁護士になることができて思うのは、やはりこの社会的地位を防御壁にできることかもしれない。
人とのつながりって楽しい?気疲れしかしないんだけど…
SOHO HOUSEの魅力は、いろいろな人とつながれることらしい。
同業者や異業種と出会い、雑談をし、そこから新しい仕事やプロジェクトが生まれていく。
そういう「社交」の場なのだろう。
いや、そんな目的もなくただただ社交を楽しむ場なのかもしれない。
ただ、僕は「社交」が苦手だ。
もちろん、社会を生き抜く作法として最低限、一応身につけてはいる。
「お仕事は何をされているんですか?」
「へーそうなんですね!」
…どこか白々しさや機械性が滲んでいるように思う。
今や、AIの方がまだ自然なコミュニケーションをとれるだろう。
結局、おそらく高級で座り心地がいいはずのソファに座りながら所在のなさをじっとりと感じていた
手を動かしたい、何かをしていたいというマグロ性
ラグジュアリーでリラックスできる空間、それがSOHO HOUSEだと思うが、
そんな中で自分のマグロ性ー動いていなければ死んでしまうような性質を改めて知った。
何かを考えるーこの制度はなぜこうなっているのだろうか
調べるーこういう構造があるのか…
文章を書くー自分で整理した結果を書く
自分なりの答えを出す
そういう「自分の頭と手を使って何かを生み出している時間」に熱中し、外部への考えを排除できるときにこそリラックスできるのだと。
つまり、動いていなければ呼吸できない、マグロに近い。
「何者かであること(属性やステータス)」を享受するより
「何かをしていること(プロセス)」にしか、安心感を得られないらしい。
「俺は弁護士、俺は弁護士……」
あのときの僕は、富裕層たちの放つ圧倒的な「何者か感」に呑まれまいと、
弁護士という自分の中で一番強いカードを掲げて虚勢を張っていた。
今は自宅にあるニトリのソファでAIと話しながらああでもないこうでもないと考えている。
今の方が酸素が足りている気がする。
