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😂 面白い人だけが面白く読める記事

面白さとは、どこにあるのか?

世の中には「面白いもの」と呼ばれるものがあります。

面白い話。

面白い映画。

面白い本。

面白いアイデア。

では、「面白い」とは一体どこに存在するのでしょうか。

作った人の中でしょうか。

作品そのものの中でしょうか。

それとも、受け取る人の中でしょうか。

実は、面白さというものは、どこかに置いてあるものではありません。

作る人と、受け取る人。

その間に生まれるものなのです。

同じ話を聞いても、大笑いする人もいれば、まったく反応しない人もいます。

同じ映画を観ても、「最高だった」という人もいれば、「何が面白いのかわからない」という人もいます。

では、作り手に問題があるのでしょうか。

そうとは限りません。

面白さとは、受け取る側の力によっても変わるものなのです。


笑うから、面白くなる

「面白いから笑う」

これは当然のことのように思えます。

面白い話を聞いたから笑う。

楽しい出来事があったから笑う。

しかし、逆もあります。

笑うから、面白くなる。

試しに、少し気分が沈んでいるときに、無理やりでも笑顔を作ってみてください。

不思議なことに、悲しいときでも、笑顔を作ることで、ほんの少し心が軽くなることがあります。

笑顔は、面白さの結果だけではありません。

面白さを生み出す入口にもなるのです。

「面白いものが現れるまで待つ」のではなく、自分から面白がる準備をする。

そこから、面白さは始まります。


「面白かったら笑ってやろう」という人

昔、桂枝雀師匠の落語の枕で、こんな趣旨のお話を聞いたことがあります。

落語を聞きに来たお客さんの中には、

「何か面白いところがあったら笑ってやろう」

という姿勢で座っている人がいる。

しかし、それは非常にもったいない。

なぜなら、その人はわざわざお金を払って、時間を作って、笑いに来ているのです。

それなのに、

「私を笑わせてみなさい」

という勝負の姿勢になってしまう。

これは、微妙です。

本来、お客さんは楽しみに来ているのです。

面白いところを探すのではなく、面白がりに来ているのです。

そして、面白さというものは、

面白いから笑うのではなく、笑うから面白い。

そんな一面があります。

だから、この一席で笑わなかったとしても。

それは落語家だけの責任ではありません。

お客さんにも、笑う準備をする責任があるのです。

そんな、人を食ったような話でした。


妄想アイデアにも同じことがある

妄想アイデアを書いていると、きっとこんな反応もあります。

「そんなもの誰が使うの?」

「実現できるわけがない」

「意味があるの?」

もちろん、現実を見ることは大切です。

しかし、最初から現実の物差しだけで測ってしまったら、世の中の多くの発想は生まれていません。

昔なら、

「遠く離れた人と話ができる箱」

も、

「世界中の情報を手のひらで見る機械」

も、

「空を飛ぶ鉄の乗り物」

も、

夢物語だったはずです。

でも、誰かが「面白い」と思った。

誰かが「こんなものがあったら楽しい」と想像した。

その積み重ねで、今の世界があります。

妄想とは、現実逃避ではありません。

まだ現実になっていない未来を、一足先に楽しむことなのです。


面白がる人と、面白がらない人

同じものを見ても、反応は人それぞれです。

「くだらない」と思う人もいます。

「くだらないけど面白い」と思う人もいます。

この違いは、知識の差だけではありません。

想像力の使い方の違いです。

子どもの頃は、誰もが空想を楽しんでいました。

段ボールは秘密基地になりました。

棒切れは剣になりました。

雲は動物や怪獣になりました。

大人になるにつれて、私たちは「正解」を探すことが増えます。

でも、面白さは正解の中だけにはありません。

「もしも」と考える余白。

「くだらないけど好き」と言える余裕。

そこに、面白さは宿ります。


最後に

実は、

この記事は、面白い人が読むと本当に面白くなるように書いています。

もし、

「なるほど、面白い」

と思ったなら。

あなたには、面白がる力があるのかもしれません。

もし、

「何を言っているのかわからない」

「全然面白くない」

と思ったなら。

それもまた、一つの答えですが・・・。


さて。

あなたには、

「面白い服」が見えましたか。

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