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『不機嫌猫と星の胎動』:①

朝の陽光が、里山の自然豊かな冬景色を優しく照らし始めた。
シェアハウスの庭では、いつものように炊き出しの準備が賑やかに進められている。


『SATOYAMA Village』の看板が、朝の光を受けて柔らかく輝き、空気は冷たいけれど、誰かの笑い声が響くたび、温かさが広がっていく。


焚き火のそばでは、ゴールデンレトリバーのラブが尻尾を大きく振って薪の近くに座り込み、誰かが薪をくべるたびに飛びついてはじゃれつき、雪を蹴散らしている。


けれどそれは表層の姿。


ラブの中にいる生命体の興奮が、そうさせているのだ。
生命体は嬉しくて仕方がない。初めて『名前』をつけてもらったから。


( 聞いて聞いてー! あたしたち、「ユラリアン」って名前をつけてもらったの!
素敵だと思わない?
学名は......えーと、忘れちゃった……光樹くんに聞いて )


光樹がいつか論文を書く日のために用意したユラリアンの学名は「𝑉𝑖𝑏𝑟𝑖𝑓𝑙𝑜𝑟𝑢𝑠 𝑦𝑢𝑟𝑎𝑟𝑖」だ。𝑉𝑖𝑏𝑟𝑖𝑓𝑙𝑜𝑟𝑢𝑠(ヴィブリフロルス)→ 「ゆらゆら揺れる(𝑉𝑖𝑏𝑟𝑖)花のような(𝑓𝑙𝑜𝑟𝑢𝑠)」という意味。植物と動物の祖先を持ち、根から栄養を吸いながらゆらゆら生きる姿を象徴してそう名付けた。


「ラブがまた薪に飛びついてるよ!  危ないからねー」


白菜の漬物を包丁でザクザクと切っていたおばちゃんが笑いながら言うと、ラブは「クゥン」と甘えた声で返事をして、尻尾をブンブン振る。


焚き火の煙が細く立ち上り、朝の空に溶けていく。


光樹とアオイは、調理場のすぐそばで並んで立っていた。


アオイが大きな鍋に味噌を溶かしているのを、光樹が必要以上に距離を詰めて見ている。
ただくっついていたいだけ。


アオイがそんな光樹に苦笑して、


「今日はちょっと濃いめにした方がいいかな?」


鍋をかき混ぜながら尋ねると、光樹は穏やかに微笑んだ。


「うん、今朝も寒くてみんな体冷えてるからね。
濃いめで温まる方がいいよ。
アオイの味噌汁、みんな楽しみにしてるんだから」


アオイは照れたように目を伏せ、でも嬉しそうに頷く。


「じゃあ、光樹の分も多めに取っておくね」


光樹は小さく笑って、アオイの肩に軽く手を置いた。
その仕草は自然で、誰が見ても夫婦の絆が伝わってくる。


ラブが二人の足元に駆け寄ってきて、光樹の脚に鼻を押しつけながら尻尾を振る。


( アオイ、光樹君、素敵な名前をつけてくれてありがとう )


「おーい、ラブも朝からラブラブに参加かよ!」


周囲から笑い声が上がり、アオイは耳まで赤くなって手を振る。


「いえ、そんな……」



庭に面したリビングの窓辺では、ジュエルが静かに外を眺めていた。
彼女はいつも少し離れたところで、皆の様子を見守るタイプだ。


尻尾をゆったりと揺らし、時折、焚き火の輪から聞こえる笑い声に耳をピクッと動かす。
顔は不機嫌そうでも、瞳には穏やかな光が宿っている。


「にゃあ……」


小さな声で鳴くと、ジュエルはゆっくりと目を細めた。
彗星衝突(注1)の記憶がまだ胸に残るけれど、この朝の光景を見ていると、確かに「生きている」実感が湧いてくる。

(注1)そのシーンの描写ページはこちら



庭のあちこちで、被災者たちがそれぞれの役割を果たしながら、声を掛け合っている。
陽気で、明るくて、まるで普通の朝のような──でも、それがどれだけ奇跡的なことか、誰もが心のどこかで知っていた。


焚き火の炎がパチパチと音を立て、
ラブが「ワン!」と元気よく吠え、
ジュエルが窓辺で静かに見守る中、
里山の新しい一日がまた始まった。



炊き出しの後片付けで、アオイが最後の皿を拭きながら、ふと光樹に顔を向けた。


「光樹、今日の予定は?」


光樹は空になった大きな鍋を抱えて、水場に運びながら、さらっと答えた。


「ラブと散歩に行って、そのあとアオイとデート」


アオイの手がピタリと止まる。


「えっ、そんなの聞いてないよ……」


「うん、今決めた。アオイ、何か予定ある?」


光樹はしゃがんで鍋を洗い始め、手際よく泡を立てる。


「ないけど……胸の痛みは? もう大丈夫なの?」


「かなりいいよ。タウンバスに乗ってジュエリーショップに行って、今日こそ指輪買おう」


アオイの眉が心配そうに寄る。


「病院の先生、2、3ヶ月は痛みが残るって言ってたよね? まだ1ヶ月しか経ってないのに……」


「個人差があるんだろう。俺、もう全然平気だから」


光樹は鍋の泡を流しながら、軽く肩をすくめて笑った。


「……それならいいけど」


アオイは少し安心したように息を吐いて、でもすぐに付け加えた。


「あ、でも指輪は要らない」


光樹の手が止まる。
しゃがんだまま、ゆっくりとアオイを見上げた。


「要らないって……どうして?」


アオイはにっこりして、


「指輪なら、あるもん。ピチュルンにサイズ直してもらったやつ」


光樹は思わず苦笑した。


「いや、だってあれ、オモチャの指輪だろ? ちゃんとしたの買おうよ」


「ううん、要らない。私、あれでいい……って言うか、あれがいいの」


アオイの声が、少しだけ甘えるように柔らかくなる。


「だって、あの指輪、他の惑星で作られた物でしょ? 
すごい価値だよ。私、堂々とつけて歩く」


光樹はしばらく黙ってアオイの顔を見つめていたが、やがて、ふっと笑みがこぼれる。



「……アオイが良いなら、それでいいか」


立ち上がって手を拭きながら、


「じゃあ、ネックレスとかブレスレットとかは? 何か、記念になるもの買えば?」


「うーん……それも要らないかな」


アオイは少し考えて、目を細めて微笑んだ。


「あ、でもデートはする。カフェでお茶しよ?」


「アオイは欲がないなあ」


光樹がからかうように言うと、アオイはすぐに反撃した。


「欲なら、あるわよ」


「へえ、どんな?」


アオイは一瞬、照れくさそうに視線を逸らしてから、まっすぐに光樹を見た。


「独占欲」


「……独占欲?」


「うん。光樹を、誰にも渡さない欲」


光樹は一瞬、目を丸くして──
次の瞬間、顔を歪めて胸を押さえた。


「あいててて……!」


「えっ、大丈夫!?」


アオイが慌てて駆け寄る。


「いってぇ! アオイにハート撃ち抜かれた……」

古いジョークだ。


光樹は大げさによろめきながら、アオイの肩に寄りかかる。
アオイは最初びっくりした顔をしたけど、すぐにくすくす笑い出して、二人はそのまま、泡の残る水場の前で、しばらく笑い合った。




増設したばかりの菜園では、柔らかな冬の陽射しが土の表面を優しく照らしていた。


トキオが鍬を置いて、美希に顔を寄せた。


「先生とアオイさんって、ほんとに仲いいよね」


美希は隣でくすっと笑って返す。


「うん。いつも当てられっぱなし」


二人の視線が、菜園の向こうでアオイと話している光樹に自然と向く。


光樹がそれに気づいて、穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた。


「トキオ、また俺たちをからかいに来たのか?」


トキオがニヤリと笑って、


「あ、いえ。いつも仲いいなーって。ただの感想ですよ? だってその通りでしょう?」


光樹もニヤリと笑い、逆襲する。


「俺から見たら、君たちも相当に仲が良さそうだぞ」


美希の頰が、ぽっと薄紅色に染まった。
トキオも照れくさそうに頭をかいて、慌てて話を逸らす。


「あ、そうだ! 美希ちゃん、先生にアレ見せてあげたら?」


「うん」


美希は少し恥ずかしそうに頷いて、左右の袖をゆっくり捲り上げた。


「あ……れ?」


光樹の瞳が、驚きと好奇心でぱっと輝いた。
美希の左右の腕にあったはずの、痛々しい自傷の痕が──以前見た時より、明らかに薄くなっている。
まるで時間が優しく撫でたように、淡く残るだけになっていた。


「薬か何か塗った?」


「ううん、何も……」


美希は首を振って、でもどこか嬉しそうに微笑んだ。


「ふーむ……」と呟いた光樹の耳に、菜園の土の下から、かすかに──「ぴちゅ……ぴちゅ……」という、小さな水音のような声が届いた。


彼はにっこり笑って、声を潜めた。


「これはきっと、妖精がしてくれたんだな」


「妖精?」


トキオが思わずプッと吹き出して、
美希も目を丸くしてから、トキオに釣られてくすくす笑い始めた。


光樹は真剣な顔で続ける。


「実はな、うちの菜園には野菜を育てる妖精がいるんだよ。ピチュルンっていう名の。
美希ちゃんもここで取れた野菜、たくさん食べてるだろう? だからきっと、そのせいだ」


トキオと美希の笑いが、少し止まる。


光樹はさらに声を落として、二人にだけ聞こえるように囁いた。


「だけど、このことは誰にも内緒だぞ。
もし見かけても騒いじゃダメだ。逃げちまうからな」


そう念を押すように言って、光樹は二人のそばを離れていった。



「ラブ、散歩に行くぞ!」


向かった先では、ラブが尻尾をブンブン振って待っていた。
光樹の背中が、陽だまりの中で遠ざかっていく。


トキオと美希は顔を見合わせて、同時に吹き出した。


「先生、幸せすぎて頭の中がファンタジーしてるわ……」


「先生、ヤバくないか?……でも、なんか可愛いよね」


二人はクスクスと笑いが止まらず──


菜園の土の下で、また「ぴちゅ……」と小さな声がした。が、トキオと美希の耳には、雀や野鳥のさえずりに紛れてしまう。


美希はそっと袖を下ろして、自分の腕を撫でた。
薄くなった痕が、まるで優しい手で守られているみたいで。


トキオが再び鍬を手に取りながら、


「ま、先生の言う通りなら……ピチュルン、ありがとうな」


美希も小さく頷いて、


「ありがとう、ピチュルン」


冬の陽射しが、二人の笑顔を優しく包んだ。
菜園は今日も、静かに、でも確かに、誰かの優しさを育て続けていた。


光樹がラブを連れて散歩に向かった砂糖楓の土地では、朝の清々しい空気の中、淡いピンク色の植物──ユラリアンたちが穏やかにゆらゆらと揺れていた。


ラブが、尻尾を勢いよく振りながら近づこうとするのを、光樹は慌ててリードを引いて止めた。
が、ふと、以前のことを思い出す。


あの時、ラブが鼻を近づけて匂いを嗅いだり、軽く舐めたりしても、ユラリアンたちはまったく反応しなかった。


光樹は少し迷った末、リードの張りを慎重に緩め、ラブを自由にさせてみた。


緊張しながら見守っていると、ラブはまるで古い友達に挨拶するように、ユラリアンのキノコ状のかさ部分を鼻で軽く突っついて回った。
やはり、敵と見なされていないようだ。


「君たちの判断基準は、一体何なんだ?」


光樹はユラリアンの群れに向かって独り言のように尋ねてみた。
もちろん、返事はない。


引き抜こうとした人は、一瞬でどこかに飛ばされてしまった。
うっかり踏んでしまったワタナベも──あの時の衝撃は、今も鮮明に記憶に残っている。


ラブの足元に目を向けると、ラブは器用にユラリアンの根を避け、決して踏まないように歩いているように見えた。


光樹の好奇心が、静かに疼き始めた。


ゆっくりとユラリアンに近づき、その場にしゃがみこむ。
指をそっとかさの部分に近づけていく──あと少しで触れる、というところで、光樹は慌てて指を引っ込めた。


やっぱりやめよう。
どこかに飛ばされてしまったら、洒落にならない。
アオイと二度と会えなくなったら──そう思うだけで胸が張り裂けそうになる。


立ち上がって首を振り、視線を少し先のほうへ移した。
あの柱状の奇妙な空間の歪みは、今日もそこに存在していた。


( ワタナベの奴、どこに飛ばされたのかな…… )


陰鬱な思いにしばし佇み、それから小さく息を吐いた。
 

「ラブ、帰るぞ。」


ユラリアンの群れの前にいたラブに声をかけると、ラブは光樹を見上げて「わん!」と明るく一声。
それからトコトコと歩いて、光樹の真横にぴったり寄り添った。

𝙉𝙚𝙭𝙩 ︎ ↓


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