判断の継続性
判断とは何か。
それは一瞬の決断ではない。
一般に、判断は「その場で下した選択」だと考えられている。
だがそれは、判断という行為のごく一部しか捉えていない。
判断は、行為の瞬間に完結しない。
判断とは、責任を引き受けた状態が、その後も持続していることだ。
結果が生じたあと、
それを取り消すことができないと理解したうえで、
なおその選択を自分のものとして保持し続ける。
その状態こそが、判断である。
だから判断は、時間を持つ。
一度下されて終わるものではなく、
結果とともに生き続ける。
では、とっさの行為は判断ではないのか。
例えば、車を運転中に人が飛び出してきたとする。
考える余裕はない。
反射的にハンドルを切り、別の事故を引き起こす。
このとき、人は「無意識だった」と説明する。
だが無意識という言葉は、
判断をなかったことにするための装置にすぎない。
そこには確かに判断があった。
ただしそれは、熟考された判断ではなく、
極限まで圧縮された高速の判断だった。
見えたもの。
見えなかったもの。
意識が向けられた対象。
切り捨てられた可能性。
それらすべてが、判断の一部だった。
だから責任は、行為の直後から発生する。
法がそれを個人に帰属させるのは、
判断の主体が個人である以上、自然なことだ。
では、その責任は、いつまで続くのか。
結果への対応が終わったときか。
法的義務を果たしたときか。
社会的制裁が完了したときか。
私は、そうは考えない。
責任は、外部で完結しない。
判断した主体の内部に、状態として残り続ける。
もし後悔が生じるなら、
その後悔をどう扱うかも、また判断である。
後悔から逃げることもできる。
意味づけを変えることもできる。
記憶として箱にしまうこともできる。
だが、どの選択をしても、
責任そのものが消えることはない。
判断とは、
責任を引き受け続けるという姿勢そのものだ。
だから私は、迷わない。
迷いとは、責任の所在が未確定な状態だからだ。
引き受ける覚悟が定まらない限り、
判断は成立しない。
判断は、正しさによって決まるのではない。
成功や失敗によって修正されるものでもない。
判断は、
不可逆な結果を含めて、
それでもなお引き受け続けると決めたときに成立する。
この地点に立って初めて、
次の問いが立ち上がる。
――倫理は、どこに存在するのか。
