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残差の記憶 1

私は、ある倫理的ジレンマに、最初から違和感を覚えていた。

それは感情的な拒否ではない。

構造への違和感だった。

それは、代表例として持ち出されるトロッコ問題。

暴走するトロッコと、分岐する線路。

片方には五人、もう片方には一人。

レバーを引くか、引かないか。

この問題が提示された瞬間、

私の中で一つの作業が始まった。

余白を消す、という作業だ。

まず、この問題には

「選択肢が二つしかない」という前提が置かれている。

だが、トロッコという物理的な存在を考えたとき、

その前提は曖昧になる。

線路上に障害物があれば、脱線する可能性がある。

意図的に脱線させることも、理論上は不可能ではない。

つまり、

「誰も死なない」という第三の可能性が、

構造の中に残ってしまっている。

その瞬間、この問題はジレンマではなくなる。

なぜなら、どれを選んでも後悔が残る状態ではなくなるからだ。

私にとって、

ジレンマが成立する条件は明確だった。

どの選択をしても、

失敗や後悔が結果として必ず残ること。

逃げ道が存在しないこと。

だから私は、まず余白を消した。

脱線は起きない。

停止もしない。

第三の選択肢は存在しない。

強制的な二択だけが残る。

そのまま進ませれば、五人が死ぬ。

レバーを切り替えれば、一人が死ぬ。

ここまで来たとき、私は迷っていなかった。

答えはすぐに出たからだ。

ただし、それは「多数決」ではなかった。

五人という数字は、ただの数だった。

年齢も、性別も、人格も、関係性もない。

そこにあるのは、「五」という記号だけだった。

判断の基準は、常に一人側にあった。

もしその一人が、私の子どもだったら。

恋人だったら。

あるいは、かけがえのない友人だったら。

私は何もしない。

五人が死ぬ結果を選ぶ。

それは冷酷さではない。

私の人生を構成している存在を、

切り捨てないというだけの話だ。

友人までは、確定で守る。

そこに計算はない。

好意があり、

その存在が私の人生を豊かにしているという事実が、

ただそこにあるだけだ。

しかし、その先には段階がある。

知人。

顔見知り。

同じ集団に属しているが、

個人としては知らない誰か。

この層に入った瞬間、

判断は感情から評価へと切り替わる。

私は問いを立てる。

その人物に、私はどれだけ好意を抱いているか。

その人物は、私にとって社会的に有益か。

その集団は、存続してほしいものか。

私は、そこに居続けたいのか。

ここではじめて、人は条件になる。

そしてもし、

その一人が完全に知らない誰かで、

年齢も性別も背景も分からない存在だったなら。

その瞬間、個は消える。

残るのは、

一と五という数字だけだ。

私はレバーを引く。

一人を犠牲にして、五人を救う。

そこに葛藤はない。

ただし、後悔は残る。

それは判断の迷いではなく、

結果として必ず付随するものだ。

どれを選んでも後悔が残る。

だからこそ、この思考実験は成立する。

私は、

最も多くを救うから選んだのではない。

最も守る理由が薄いものを、

切り離しただけだ。

この瞬間、

倫理的ジレンマは完全に立ち上がる。

そして同時に、

私の思考は次の場所へ進み始める。

――判断とは何か。

――倫理はどこに存在するのか。

――責任は、いつ、誰に発生するのか。

ここからが、

本当の思考の始まりだった。

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