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2.思考が引受ける物

判断とは何か。

それは、正解を選ぶ行為ではない。

少なくとも、私にとってはそうではなかった。

判断とは、条件をすべて引き受けたうえで、

一つの結果を現実として固定する行為だ。

選択肢の中から「最も正しいもの」を探すのではない。

他のすべての可能性を、自らの手で切り捨てること。

そして、その切り捨てた可能性が、

二度と回収できないことを理解したうえで、

なお前に進むこと。

それが判断だ。

だから、判断の瞬間に迷いが残っている状態は、

まだ判断に至っていない。

迷いとは、責任の所在が定まっていない状態だからだ。

「もし別の選択をしていたら」という思考が成立している限り、

主体は未来に逃げ続けている。

では、倫理はどこに存在するのか。

社会か。

法律か。

文化か。

あるいは多数派の合意か。

私には、それらが倫理そのものだとは思えなかった。

それらはすべて、倫理が表出した「結果」であって、

倫理そのものではない。

倫理は、判断の直前には存在しない。

判断の外側にも存在しない。

倫理は、判断が行われた瞬間に、

その主体の内部にだけ立ち上がる。

他者に共有される前の倫理。

言語化される前の倫理。

評価される前の倫理。

それは常に、孤立している。

だからこそ、倫理は不安定だ。

同じ状況でも、主体が変われば倫理は変わる。

同じ主体でも、時間や記憶によって形を変える。

それでも倫理が成立するのは、

そこに判断した主体が存在するからだ。

では、責任は、いつ、誰に発生するのか。

責任は、結果に対して発生するものではない。

結果が出たあとに押し付けられるものでもない。

責任は、判断を引き受けた瞬間に、

すでに発生している。

誰かに強制された選択であっても、

最終的に「選んだ」と認識したのが自分であるなら、

責任はそこに残る。

逃れることはできない。

責任を認識しない思考は、揺れる。

条件を並べ、可能性を広げ、

決断を先送りにする。

それは慎重さではなく、未確定だ。

私は、責任を認識したうえで思考している。

だから判断できる。

判断できるから、迷わない。

そして、迷わないからといって、

後悔が消えるわけではない。

後悔は残る。

失敗も残る。

それは避けられない。

だが、それらは判断を否定する材料にはならない。

後悔や失敗は、

判断の外側で、記憶として蓄積されるだけだ。

判断とは、

倫理とは、

責任とは、

すべて主体の中で完結する。

その事実を引き受けたとき、

思考はようやく、次の段階へ進む準備を終える。

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