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Rarely NORMAL 7 方向音痴と犬

私は知らないところに行くのが意外と好きである。

知らないところとは、別にあの世とか、マナーにうるさいラーメン屋とかではない。

例えば、いつも利用している駅の使ったことのない方の出口側にあるスーパーとか、一生に一度しか訪れることがないようなマイナーな役所だとか。

だからといって、近所で月一度程度の頻度で訪れる場所に向かうのに、毎回一々オンライン地図を利用する人もいないだろう。

当然、私も近所の行き慣れた店に行くのに、一々地図アプリなど立ち上げない。

それどころかスマホなんぞはデスクに置いたままササッとスマートに目的地を訪れ、用事を済ませて帰ってこようと思ったりする。

申し遅れましたが ワタクシ、極度の方向音痴でございます。

ある日のお昼すぎ、妻が私にこう言った。

「13時にノバ(犬)のトリミングの予約入れてるんだけど、今から荷物が届くからそれ受け取りたいのよね。悪いんだけどあなたが連れて行ってくれる?」

断る理由などない。

先日下痢で苦しむ私に間違えて強力な便秘薬を処方し、脳みそまで尻から出てきそうになってトイレでメソメソ泣く私の横で腹を抱えて笑っていた妻にも抗議一つしなかった私である。

「承知しましたでゲス」と卑屈な愛想笑いを妻に印象づけてノバに何度か声をかけると、ノバはゆっくりと伸びをしてゆったりと尻尾を振りながらあくびをし、小さく「アウ」と声を上げた。

ノバは黒い元保護犬である。地獄行き3日前に妻が保健所から連れ出して10年が経過し、今では緊張感もなしに部屋のソファの上で腹を出して寝ている。

私が呼んでもまず動かない。二度三度と呼び続け、さらに語調を強めていかないと動かない。

妻が呼ぶと恩を感じているわけでもなかろうが、光の速さで妻の眼の前に現れる。いやイメージとしては呼ぶ前にすでにそこにいるという感じである。

さて、流れるような動作で準備を済ませ、何回か訪れたことのある自宅から徒歩10分程度のトリミングサロンへ出かけよう。そしてさっさと引き渡して、帰りにスーパーに寄ってアイスでも買ってくるか。

そんな事を考えながら、財布に溜まった小銭がどれくらいあったか思い出しながら「うーん、スマホは・・・いらんな」と置いて出ることにした。

だいたいスマホなんぞは役に立たない。

カーナビもそうだが、目的地が近づくと勝手に案内をやめてしまう。

「目的地に到着しました。案内を終了します」

極度の方向音痴の私からすると、とんでもない話である。
梯子外しも良いところである。最後まで責任を持って案内しろと言いたい。

私は過去にこの仕様のせいで目的地の真ん前でゾンビのように15分ウロウロした挙句に、悔し涙を流しながら一旦遠くまで行ってもう一度案内を設定するという実にナンセンスな行為を強いられたことが何回もある。現在位置から目的地までが近すぎると案内の設定自体を「ご冗談でしょう」とお断りされるのである。

ともかくも、今回の目的地のトリミングサロンは月に一度程度訪れるようになってもう5年である。
12回×5年で、えーっと、もうかれこれ80回くらいは訪れているので余程のアホでもない限り迷うことなどありえない。

というわけで、ノバを連れて家を出た。

道路のそこかしこに執着を見せるノバを時に説得し、また引っ張ったり引っ張られたりしてヨタヨタと歩き10分程度が経過した。

「うーん・・・ここどこだっけ?」

軽い感じでそう思っているフリをして自分を欺いてはいるが、実際はすでに嫌な予感で一杯である。

さっきまでは見慣れた景色があったが、ここは知らない。

落ち着け。こういうときは少し来た道を引き返せば良いのだ。

道に迷う人はプライドが高いからなかなか来た道を引き返せずに道に迷ってしまう、という話を昔どこかで聞いたことがある。

私にはそんなプライドはない。
母から受け継いだこの方向音痴は常に私を悩ませてきた。
自分の安っぽいプライドなんぞで遺伝子に対抗できるわけがないことは過去の戦いを通して学習している。

「ノバ、お楽しみのところスマンが少し引き返すぞ」

と不安になりながら声を掛けて踵を返すが、ノバは抵抗する。

しかしあまりに抵抗するので、その理由を考えてみたところ、こんな仮説が私の頭の中を駆け巡り始めた。

犬というものは習慣の動物である。
毎朝散歩の時間が来ると横でハアハアしてプレッシャーを掛けてくる。

食事の時間になるとまた横でハアハアして、無視していると今度はハアハアしながら私の手に自分の手を載せてくる。

真冬以外は基本的にいつもハアハアしてるので、本当にハアハアしたいときは誰も信用してくれないのではないかとこっちがハアハアするくらいだ。

病院に行くぞ、と声をかけると器用に風呂場のドアを開けてバスタブに身を隠し息を潜める。そのくせ、寝る時間になると勝手にベッドに行って眠り始める。

そう考えると、ノバはひょっとしたらトリミングサロンの場所を知ってるのではないかと期待が膨らむ。
私か妻に連れられ、これまで少なくとも80回くらいはトリミングサロンに行っているのである。

年頃なので親に内緒で一人で出かけてもいるだろうから、120回は訪れている可能性がある。

となると彼女にとってはすでにトリミングサロンへの道は習慣として完全に身についているはずだ。

じゃなきゃこんな事態に陥っても余裕でクンクン道端のどうでもよさそうなものの匂いを嗅いでいるはずはないではないか。

ノバの見せた抵抗はひょっとしたら「こっちが近道だワン」ということなのではないだろうか。

私は人を育てる器量があるともっぱらの評判の上司みたいに、ノバにサロンまでの道を一任することにした。

「やりたいようにやれ、責任は私が取る!」

そう上司に言われた入社3年目の社員のようにこんどは嬉しそうに小走りを始めるノバ。

良いぞ、その調子だノバ!カッコいいぞノバ!お前を飼ってよかったぞノバ!

しかし5分後、私はノバにこう声を掛けることとなった。

「責任の所在がどこにあるとか、そういう話じゃないんだ。ただね『出来ます』みたいに自信満々に言うからやらせてみたらこんな事になって。でも責任は僕が取ることになるんだよ?別に迷ったからって怒って言ってるわけじゃないんだよ。事実を言ってるだけで」と、今度は、嫌な上司みたいにネチネチと言うと、ノバは嬉しそうに尻尾をゆらゆらと左右に振っている。

さっきまでは「引き返せばリカバリーできるかもしれない場所」であったが、今は「引き返せばリカバリーできるかもしれない場所からさらに離れた知らない場所」に居るのである。

これを俗に「迷った」というのではなかろうか。

スマホを置いてきたので何時か分からないが、肌感覚ですでに予約時間は5分程度過ぎている感じがする。

もうダメだ。

このまま私とノバはこの街を徘徊しつづけ、靴の底は剥がれて歩く度にペタンペタンと音がしたりして、その横を夕日をバックに豆腐屋さんの軽トラがラッパの音を立てて通り過ぎてゆくのだ。

そう思うと、無人の交番においてある電話機の横の「警察署と通話ができます」と書いてあるボードのピーポくんの目さえも憎たらしく思えてくる。

交番の前で途方に暮れていると私の肩を誰かが叩いた。

妻である。

「あなたスマホ置いていったでしょ。サロンから電話があってまだ来てないっていうから探しに来たのよ。なんでスマホ置いていくのよ。また何か馬鹿なことにチャレンジしてるの?方向音痴なんだからさ、スマホは絶対持っていかなきゃダメ。狭っまい家の中でも迷いそうなんだからさ」

そう言いながら妻は私の手からノバのリードを奪って歩き出す。

何のことはない。40秒ほど歩いた先にトリミングサロンはあった。

わかってみれば、先程私がノバに責任を押し付けてくどくどと説教や皮肉を言っていた時、ノバは切なそうな顔をしてサロンの方向をチラチラと見ていたのだ。

私は悪くない。知ってるなら知ってると言えば良いのである。

諸説あるそうだが、犬が人類と生活をし始めて少なくとも1万年ほどは経つそうだ。

それくらいの時間があれば、落語は無理でも「ガタガタ言わずについてこいなのだワン」くらい話せるような歩み寄りは見せてくれても良いはずだ。

なんとかランドではネズミだってペラペラしゃべるのだ。

しかし、こんな事がしょっちゅう起きるからといって私は自分の知っている場所へ行くのにスマホを持つつもりはない。

だが来月は大丈夫だ。

今回でようやくトリミングサロンの場所を覚えたからである。



ノンフィクションの短編小説です。よろしければどうぞ。

相貌失認の日常とか思い出とかのあれこれ。

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