物語を怖がらないための尊厳レジリエンス
私は最近、二つの社会的事案について考察する機会があった。
一つは、ある組織の内部で起きた問題提起を巡る事案である。
もう一つは、歴史認識に関する展示活動を巡る事案である。
扱われているテーマも背景もまったく異なるため、当初はそれぞれ独立した問題として見ていた。しかし資料を読み、報道を追い、当事者たちの主張を確認していくうちに、私は次第に奇妙な違和感を覚えるようになった。
どちらの事案にも、傷ついたと訴えている人々が存在していた。しかも、その訴えは決して小さなものではない。それにもかかわらず、議論が進めば進むほど、その声そのものが見えなくなっていくように感じられたのである。
最初の事案では、組織の内部から問題が指摘されていた。本来であれば、その指摘された内容が事実なのかどうかが最も重要な論点になるはずである。もし事実であれば何が問題だったのか、そしてどのような改善が必要なのかを議論しなければならない。しかし実際に交わされていた議論を追っていくと、いつの間にか焦点は問題の内容から、それを指摘した人物そのものへと移っていた。その人物は信用できるのか、本当に善意だったのか、別の意図があったのではないか。もちろん、そのような検討が全く不要だと言うつもりはない。だが、その議論が繰り返されるほど、私には肝心の問題そのものが後景へ退いていくように見えたのである。
もう一つの事案でも、私は似た感覚を覚えた。そこでは展示によって傷ついたと訴える人々がいたため、私はまず何に傷ついたのか、その訴えの内容を理解しようとした。ところが実際の議論の中心にあったのは、そうした声ではなく「表現の自由」という言葉だった。それは民主社会において極めて重要な価値であり、私自身もその意義を否定するつもりはない。しかし、表現の自由を語ることと、傷ついた人々の声に耳を傾けることは本来別の問いである。にもかかわらず、議論が進むにつれて前者ばかりが語られ、後者は少しずつ見えなくなっていくように思えた。

二つの事案はまったく異なるものであり、普通に考えれば共通点など存在しないはずである。それでも私には同じ構図が見えていた。誰かが声を上げている。誰かが傷ついたと訴えている。そしてその周囲では多くの人が議論を交わしている。しかし、なぜかその訴えだけが届かないのである。いや、正確には届いていないのではない。聞こえているはずなのに、別の何かによって上書きされてしまっている。そんな感覚だった。
その時の私はまだ、その正体を説明する言葉を持っていなかった。ただ、人々の視線を強く引き寄せ、本来見えるはずだったものを見えなくしてしまう何かが存在していることだけは感じていたのである。
考察を続けるうちに、私はその「何か」が強い物語として機能していることに気づき始めた。
内部からの問題提起を巡る事案では、「組織を攻撃する人物」という物語が形成されていた。その物語は、問題の内容よりも人物への関心を強く引き寄せる。結果として、本来向き合うべきだった事実確認が後景へと退いていく。
展示活動を巡る事案では、「表現の自由を守る」という物語が形成されていた。その物語は重要な価値を守ろうとするものであるが、一方で、その表現によって傷ついたと訴える人々の声を見えにくくしていた。
どちらの物語も、一見するともっともらしい。むしろ、多くの人が自然に受け入れてしまう力を持っている。しかし、だからこそ私は違和感を覚えたのである。
なぜなら、どちらの物語も本来向き合うべき対象から人々の視線を逸らしていたからだ。
その頃、私は偶然、物語療法という考え方に触れることになった。アニメ療法という心理療法を紹介する記事を読んだことがきっかけだった。
そこでは、物語は人を惑わせるものではなく、人を癒やすものとして扱われていた。
人は物語を通して自分自身を理解する。
人は物語を通して傷ついた経験に意味を与える。
人は物語を通して再び前を向く力を得る。
私は少なからず驚いた。
なぜなら、それまで私が見ていたのは物語の危険な側面だったからである。しかし物語療法が示していたのは、まったく逆の側面だった。
物語は本来、人を救う力でもあったのである。

ここで私の見方は大きく変わった。
問題は物語そのものではなかった。
問題は、物語の適用を間違えることだったのである。
改めて最初の二つの事案を見直してみると、そのことがよく分かる。
内部からの問題提起を巡る事案で本来向き合うべきだったのは、問題提起を行った人物の善悪ではない。指摘された内容が事実なのかどうかである。もし尊厳レジリエンスが機能するならば、「告発者は信用できるのか」という問いの前に、「告発内容は事実なのか」という問いを社会へ差し戻すだろう。
それは告発者を守るためではない。事実に向き合うためである。

展示活動を巡る事案も同じである。本来問われるべきだったのは、表現の自由があるかないかだけではない。その表現によって誰かの尊厳が損なわれていないか、その自由の行使が他者に不自由を押し付けていないかである。もし尊厳レジリエンスが機能するならば、「表現の自由を守るべきか」という問いに加えて、「その自由の行使は誰にどのような影響を与えているのか」という問いを社会へ差し戻すだろう。
それは表現を禁止するためではない。表現をより適切に社会の中で活かすためである。
私は当初、二つの事案の中に物語の危険性を見ていた。しかし物語療法という考え方に触れたことで、その見方は大きく変わった。
物語は確かに人を傷つけることがある。事実を見えなくし、対立を深め、尊厳侵害を増幅することもある。
しかし、それは物語を遠ざける理由にはならない。
なぜなら、物語は人を癒やし、支え、未来へ進む力も持っているからである。
尊厳レジリエンスは、尊厳リスクがあるからといって物語を排除する考え方ではない。危険をなくすことだけを目指していては、尊厳レジリエンスは実現できない。
本当に必要なのは、物語の力を理解し、その力を適切に適用することである。
内部からの問題提起に向き合うときも、歴史や表現を巡る議論に向き合うときも、私たちが問うべきなのは「どの物語を信じるか」だけではない。その物語は本来向き合うべき対象から目を逸らしていないか、誰かの尊厳を見えなくしていないかを問い続けることが必要なのだと思う。

人は物語によって傷つく。
しかし人は物語によって回復もする。
だから私たちが目指すべきなのは、物語のない社会ではない。
物語を怖がらなくてよい社会である。
そして尊厳レジリエンスとは、そのための知恵なのだと私は考えている。
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