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【コラム Vol.13】病むおじさんと、推し活の距離感


推し活をしていると、
たまに「病むおじさん」を見る。

推しに構われていない。
最近、全然会えていない。
他の同担の方が、良い特典会をしているように見える。
自分より後から来た人の方が、距離が近く見える。

そういうものを見て、
勝手に落ち込んで、
勝手に傷ついて、
勝手にSNSで病むおじさんがいる。

最初に言っておくと、
病むこと自体を否定したいわけではない。

人間なので、
感情が乱れることはある。
寂しくなる日もある。
自分はもう必要ないのではないか、
と思う日もある。

ただ、
それをいい年をした大人が、
推しにも他のオタクにも見える場所でやっている時、
正直かなりきつい。

若い子が、
等身大の心情で悩むことはある。

恋愛でも、
仕事でも、
人間関係でも、
推し活でも、
感情が整理できずに揺れることはある。

そういう時に、
おじさんたちは本来、
「まだまだ若いね」
なんて言いながら、
少し距離を置いて聞いたり、
必要なら軽く助言したりする側である。

少なくとも、
若い子に心配される側ではない。

まして、
自分の半分の年齢にも満たないようなアイドルに対して、
「自分は傷ついています」
「もっと構ってください」
「あなたの反応で自分の気分が決まります」
という空気を出すのは、
かなり危うい。

年齢を重ねたから偉い、
という話ではない。

ただ、
年齢を重ねたなら、
自分の感情をどこに置くかくらいは、
少し考えた方がいい。


近く見える関係の危うさ


アイドルの現場は、距離が近い。

特典会がある。
チェキがある。
名前を覚えてもらえることがある。
リプを見てもらえることがある。
いいねという反応をもらえる。

「久しぶり」
「来てくれてありがとう」
「また来てね」
そういう言葉を直接もらえる。

これは推し活の大きな魅力である。
同時に、
かなり危うい部分でもある。

何度も通う。
お金も使う。
時間も使う。
生活の予定が、
推しのスケジュールを中心に動き始める。

そうなると、
いつの間にか自分の中で、
「自分は少し特別なはずだ」
という感覚が育っていく。

問題は、
アイドル側から見れば、
ファンは一人ではないということだ。

自分の他にも、
通っている人がいる。
お金を使っている人がいる。
時間を使っている人がいる。
自分は特別だと思いたい人がいる。

さらに言えば、
自分より通っていて、
自分よりお金を使っていて、
自分より時間をかけている人もいる。

そこを見始めると、もうきりがない。

遠方で会えない。
休みが取れない。
お金が続かない。
家庭や仕事の都合で動けない。

そういう事情は、もちろんある。

というより、
多くの人が何かしらの事情を抱えている。

完全に自由な時間とお金と距離を持ったまま、
何の障害もなく推し活をしている人の方が、
むしろ少ないはずだ。

それでも多くの人は、
それぞれの生活の中で折り合いをつけている。

行ける日に行く。
使える範囲で使う。
無理な日は諦める。
会えない時間も、
自分でどうにか処理する。

その条件込みで推し活をしている。

それなのに、
自分より通える人、
話せる人、
近く見える人を見て病む。

その原因を、
推しの反応や同担の存在に向ける。

かなり冷たい言い方になるが、
推しに自分の生活条件を背負わせる前に、
自分に合った推し活をしてください、
と思ってしまう。

事情があることは、問題ではない。
問題は、
その事情を自分で処理せず、
推しや同担との関係性の中に持ち込み、
公開の場で病みとして展示してしまうことである。

それは苦しさの表明であると同時に、
大人としての処理能力の
低さも見せてしまっている。


比較が、承認欲求を壊していく


病むおじさんの多くは、
推しそのものよりも、
同担との比較で壊れていく。

あの人の方が笑顔が大きい。
あの人の方がチェキの距離が近い。
あの人の方がリプに反応されている。
あの人の方が覚えられているように見える。

そのたびに、他人の楽しそうな姿を、
自分が大切にされていない証拠のように
受け取ってしまう。

これはかなり危ない。

他人が良い特典会をしていることは、
自分が否定された証拠ではない。

他人がレスをもらったことは、
自分が捨てられた証拠ではない。

他人のチェキが良いことは、
自分のチェキが負けたという意味ではない。

しかし、推しに承認を集中させすぎていると、
そこが分けられなくなる。

他人の幸福を見て、
自分の欠落を確認してしまう。
他人の近さを見て、
自分の遠さを測ってしまう。

そこから病みが始まる。

推し活は本来、推しを見るものだと思う。

しかし病み始めた人は、推しではなく、
同担の方を見始める。

誰が構われているか。
誰が近いか。
誰が良い顔をもらっているか。
誰が反応されているか。

推し活の視線が、
推しではなく比較に向いた瞬間、
それはかなりしんどい遊びになる。


推しに懸けすぎている


良い年をして病むおじさんを見ていると、
時々思う。

この人は、
推しに懸けすぎていたのではないか。

もちろん、推しに救われることはある。

ライブで元気をもらう。
特典会の一言で、一週間を乗り切れる。
SNSの投稿で、少し気持ちが軽くなる。
そういうことは本当にある。

ただ、推しが生活の中心を越えて、
感情の基準そのものになってしまうと、
かなり危うい。

仕事で満たされない。
家庭で満たされない。
友人関係が薄い。
恋愛や結婚から遠い。
日常の中に、
自分を肯定してくれる場所が少ない。

そういう状態で、
推しからの反応に承認を集中させると、
一つひとつの出来事が重くなる。

いいねが返ってこないだけで落ちる。
名前を呼ばれなかっただけで落ちる。
チェキの表情が薄かっただけで落ちる。
他の同担が楽しそうなだけで落ちる。

本来なら生活の中に分散されているはずの
承認欲求が、推し一人に集中してしまう。

これはかなり危ない。
独身だから悪い、という話ではない。

ただ、
推し以外に感情を受け止める場所が
少ない人ほど、推し活の中で
揺れやすくなるとは思う。

誰かと暮らしているかどうかより、
自分の感情を預ける場所が、
推し以外にもあるかどうか。
そこが大きい。

推し活が悪いのではない。
問題は、自分の感情調整を、
推しの反応に過度に委ねてしまうことである。

その状態で現場に行くと、
ライブを見に行っているのか、
自分がまだ必要とされているかを
確認しに行っているのか、
だんだんわからなくなる。

そして、確認できなかった時に病む。

それは推し活というより、
承認の点検作業に近い。

推しに会いに行っているようで、
実際には、自分の価値が
まだ残っているかを確認しに行っている。
そうなっているなら、かなり危ない。

推しは、あなたの自己肯定感を
毎回再発行する窓口ではない。


病みを見える場所へ置くということ


病むことはある。
好きだからこそ、揺れることもある。
そこまではわかる。

問題は、
それを推しが見える場所でやることだ。

「もういいかな」
「自分はいらないみたい」
「他の人の方が楽しそう」
「最近、距離感じる」
「もう会いに行かない方がいいのかな」

こういう投稿は、一見ただの独り言に見える。
でも、推しが見える場所で書いているなら、
それは独り言ではない。

読ませるための病みである。

気づいてほしい。
心配してほしい。
引き止めてほしい。
自分の存在を確認してほしい。

そういう期待が混ざっているように見える。
これはかなり重い。

他のオタクから見れば、
病みツイートをしているおじさんは、
ただの厄介なおじさんに見えるかもしれない。

また病んでるな。
面倒くさいな。
距離感が重いな。

そう見える。

ただ、アイドル本人からすれば、
その人も自分を推してくれている
大事な一人であることには変わらない。

ライブに来てくれた人。
チェキを撮ってくれた人。
言葉をくれた人。
時間やお金を使って、
自分に会いに来てくれた人。

だからこそ、
見える場所で病まれると、
アイドル側も簡単に無視できない。

心配になるかもしれない。
自分の対応が悪かったのかと思うかもしれない。
次に会った時、どう接すればいいのか
考えてしまうかもしれない。

他のファンと同じように接していたつもりでも、
その人だけが傷ついていたように見えたら、
無意識に気を遣わせてしまうかもしれない。

それはもう、応援ではなく負担である。

しかも相手は、自分の半分の年齢にも
満たないような子かもしれない。

ちゃんとした大人なら、
そこまで考えた方がいい。

自分の寂しさを、
若いアイドルに心配させる形で処理しない。

自分の不安を、
推しの責任のように見える場所へ置かない。

自分が満たされなかった感情を、
相手に回収させようとしない。

誰かに聞いてほしいなら、
本来は推し以外にも選択肢がある。

友人に話す。
ノートに書く。
鍵の中で吐き出す。
それでも無理なら、専門家に相談する。

感情の処理先は、
推しの見えるSNSだけではない。

それでも毎回そこに置くのなら、
少しきつい言い方になるが、
その人には聞いてくれる友人がいないのか、
自分で処理する方法を持っていないのか、
あるいは推しに拾ってもらうことだけを
期待しているのか、という話になる。

どれであっても、大人としてはかなり厳しい。

推しは、
あなたの未処理の感情を受け取るために、
SNSを開いているわけではない。


最後に


病むことが恥ずかしいのではない。

その病みを、
推しに見える場所へ置いて、
心配させ、
気を遣わせ、
回収させようとすることが恥ずかしい。

それは繊細さではない。
深い愛でもない。
応援でもない。

病むことはある。
好きだからこそ、揺れることもある。
そこまではわかる。

ただ、推しに見える場所で病む時、
その病みはもう自分だけのものではなくなる。

推しを心配させる。
気を遣わせる。
次の対応を考えさせる。
自分の感情なのに、相手の負担にしてしまう。

推しに懸けることは、悪いことではない。

でも、推しに自分の感情の
責任を背負わせるのは違う。

いい年をして病むな、とは言わない。
人間だから病む時はある。

ただ、いい年をしているなら、
病み方くらいは少し考えた方がいい。

自分の感情くらい、自分で持ち帰る。

いい年をした大人なら、
それくらいはできていてほしい。



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