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「起きて半畳、寝て一畳」。永平寺で参禅修行してみた。

【超訳】禅とは、座禅に始まり、座禅に終わる。反応してしまう自分の心を、観つめるの訓練である。

なぜ22人も、山奥に来るのか

人生初の坐禅体験を経て、私は永平寺に向かいました。

福井の山深く。
33万㎡の境内。
70を超える伽藍。

1244年、道元禅師によって開かれた曹洞宗の大本山、永平寺。
「日本一厳しい修行道場」とも呼ばれる場所です。

今回の参禅参加者は22名。

驚いたのは、リピーターがいること。
20代もいる。
海外(スイス)からの参加者も。

3時50分に振鈴。
4時20分、暁天坐禅。

それでも人は、ここに来る。

なぜか。

答えは単純でした。

「自分の心を持て余している」からです。

永平寺は巨大な思想のお寺だった

永平寺は七堂伽藍で構成されています。

山門
仏殿
法堂
僧堂
大庫院
東司
浴司

法堂は頭。
仏殿は心臓。
僧堂と大庫院は両手。
東司と浴司は両脚。

建物全体が坐禅する釈迦を模している。

しかしこれは象徴ではありません。

修行僧の一日の動線そのものです。

朝課は仏殿。
説法は法堂。
坐禅は僧堂。
食事は大庫院。
排泄は東司。
入浴は浴司。

つまり永平寺は、
建築そのものが思想です。

山門 仏殿 法堂 僧堂 大庫院 東司 浴司

傘松閣の156畳の大広間。
230枚の花鳥彩色天井画。

修行僧が入門するとき、修行を終えたとき、
人生で2回しか通ることが許されない山門。

坐禅だけが修行ではない。

食事も、排泄も、入浴も、すべてが修行。

大庫院では雲水(修行僧)が朝4時より前から食事を準備する。
東司(トイレ)も修行の場。
浴室も修行の場。

「起きて半畳、寝て一畳」

僧堂の単は一畳。

そこで坐り、食べ、眠る。

プライバシーはない。
逃げ場もない。

しかし余計な選択肢もない。

現代は選択肢が多すぎる。

禅とは思想ではなく、日常そのものなのだと。

坐禅とは何か

まず、世の中で理解されている座禅の認識は誤っています。

坐禅は、

・無になること
・何も考えなくなること
・悟りを開く特別な行為

ではありません。

講話で最初に言われたのは、意外にもこうでした。

「坐禅は、何かを得るための時間ではありません」

曹洞宗ではこれを「只管打坐(しかんたざ)」と言います。
ただひたすらに坐る。
何かを掴みにいかない。
何者かになろうとしない。
坐ることそのものが修行であるという立場です。

私はその説明を聞きながら、
『弓と禅』で読んだ感覚を思い出していました。

「術は術なきものとなり…射ないことは、弓と矢なくして射ることになる」

狙いを強めるほど、手が硬くなる。
的を当てようとするほど、離れない。
そして、結果を握ろうとする自我そのものが、行為を邪魔する。

只管打坐(しかんたざ)も同じです。
悟りを取りに行くな。成果を取りに行くな。
ただ坐れ。
そう言われるほど、こちらの「意図しすぎる手」があぶり出される。
まさに禅の本質を考えさせられました。

姿勢が先、精神はあと

永平寺で教わる坐禅は、まず身体から始まります。

  • 坐蒲(ざふ)に坐る

  • 足を組む(結跏趺坐または半跏趺坐)

  • 背筋をまっすぐに伸ばす

  • 顎を軽く引く

  • 両手は法界定印(ほっかいじょういん)(左手の上に右手を重ね、親指同士を軽く触れさせ楕円を作る)

これは「調身(ちょうしん)」

姿勢が整わなければ、心は整わない。
だから禅は精神論から入らない。

重要なのは、「力まない」こと。

胸を張らない。
肩に力を入れない。
しかし、崩さない。

姿勢が整うと、不思議と呼吸が変わる。
人生でこれほど呼吸に意識を向けたのは初めてでした。

呼吸を整えるのではない

ここが最も印象に残った部分です。

「呼吸を整えようとしない」

多くの人は、坐禅=深呼吸と思っている。

違います。

無理に深くしない。
コントロールしない。

ただ、

息が入る。
息が出る。

それを観る。

これが「調息(ちょうそく)」

呼吸は、心の状態をそのまま映します。

浅いときは、焦っている。
荒いときは、怒っている。

呼吸を操作するのではなく、
呼吸を通して「今の自分」を知る。

だからまず、身体と呼吸。

精神論ではない。
徹底して実践的です。

雑念は敵ではない

そして、最も誤解されるのがここ。

雑念は消さない。

消そうとすると、増えます。

むしろ、

「あ、今考えているな」

と気づく。

それだけ。

判断しない。
責めない。
分析しない。

ただ、戻る。
また呼吸へ。

これが「調心(ちょうしん)」

坐禅とは、

雑念をゼロにする技術ではなく、
雑念に飲み込まれない距離をつくる訓練でした。

警策(きょうさく)の意味

坐禅中、肩に「パシッ」と入る警策。

外から見れば、叩かれているように見える。

しかしあれは罰ではない。

眠気や散漫さから意識を戻すための合図。
「今ここに帰れ」という慈悲です。

打たれた瞬間、背筋が伸び、呼吸が深くなる。

精神を叱るのではなく、
身体を通して心を正す。

禅は、徹底して身体の実践です。

坐禅は止観である

止(し)=止める
観(かん)=観る

動きを止め、反応を観る。

これが禅。

フッサールのエポケーが、判断をカッコに入れる作業なら、
坐禅はそれを身体でやる行為です。

東洋は、哲学を身体化した。

只管打坐とは、
世界を変えにいく姿勢ではなく、
世界に反応してしまう自分を観る姿勢。

それが禅でした。

五観の偈が突きつける残酷な問い

永平寺では食事も厳格な作法で行います。

食前に唱える「五観の偈」。

一、功の多少を計り、彼の来処を量る
二、己が徳行の全欠を忖って供に応ず
三、心を防ぎ過貪等を離るるを宗とす
四、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり
五、道業を成ぜんが為に今この食を受く

意味は厳しい。

この食事はどこから来たのか。
自分はそれに値する人間か。
貪りの心はないか。
これは快楽ではなく、命を支える薬だ。
修行のためにいただく。

食事とは、命の受領に変わる瞬間。
無言の食事の中で感じました。

生きているのではなく、
生かされているのだと。

講話で見えた、人の本音

最後に一人ずつ感想を話す時間がありました。

「最近、家族と死別しました」
「怒りっぽくなり、自分を整えたくて来ました」
「自分に向き合う時間が欲しかった」

ここに来る理由は、様々でした、。

怒り。
悲しみ。
焦燥。

心の姿勢。

起きた出来事に掴まれないこと。
ただ、ひたすらに座ること。

禅とハラスメントはつながっている

ハラスメントも、組織の歪みも、
出来事から始まるのではない。

歪んだ反応から始まる。

怒りに掴まれる。
正しさに酔う。
恐れから防御する。

エポケーを失った瞬間、
人は他者を道具にする。

禅は、反応の前に一拍置く身体をつくる。

これ以上に実践的な思想は、あまりない。

永平寺は山奥にあらず

20年前の私は、きっと笑っていたでしょう。

忙しさと正しさに酔い、
反応し続けることが「前進」だと信じていた。

しかし今なら分かる。

永平寺は、山奥の修行道場ではない。

日常こそが最高の修行。

怒りが湧いた瞬間。
不安が走った瞬間。
評価が怖くなった瞬間。

そこが、坐禅の場。

禅とは、特別な時間ではない。

反応してしまう自分を、
見捨てずに観る勇気のことでした。

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