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日本と英米圏ー食い違うフェミニストの論理(1)

性的フィクションやメディア表象をめぐる境界線の引き方は、文化圏によってかなり違う。特に日本と英米圏のフェミニズム言説を比べると、その違いははっきりしている。

日本のフェミニズム家父長制と刺激の大きさ
日本では、BL(ボーイズラブ)と男性向けの萌え系・ヘンタイ表現の扱いに、はっきりとした非対称性がある。
この非対称性の背景には、「家父長制」を唯一の悪役として設定する枠組みがある。そこから距離を取った欲望表現は「主体性の行使」として正当化され、男性の視線に基づく表現は構造的抑圧の再生産として批判される。
社会学者の堀あきこ氏は、編著『BLの教科書』で、BLを「女性が家父長制から逃れ、欲望を主体的に表現する場」としている。一方、男性向け表現に対しては、成人指定などの一定の線引きは容認しつつも、BLほど積極的に擁護する論調にはなっていない。
より鮮明な境界の引き方を示しているのが、東京大学大学院教授の田中東子氏である。田中氏は、公共メディアで用いられる萌え絵(例: 宇崎ちゃんの献血ポスター)を「ジェンダー規範の再生産」として批判してきた。一方で、黒澤多香子として執筆するBL作品においては、力関係や支配構造を物語の中心的な要素として扱っている。
日本側の批判は、しばしば「女性が男性に対して与える刺激の大きさ」に着目する。胸の大きさや露出の度合い、男性の視線を誘うような描写に対して敏感に反応する。これは、家父長制的な視線から女性を守るという論理と結びつきやすい。

西側の境界トロープという視点
英米圏の影響が強い文脈では、境界を引く原理が全く異なる。
Anita Sarkeesianは、「Feminist Frequency」というプロジェクトで、ゲームやポップカルチャーにおける女性描写を分析してきた。彼女が特に問題視したのは「有害なトロープ」と呼ばれるものだ。
トロープとは、物語の中で繰り返し使われる定型的な表現パターンや役割のことである。例えば「女性が性的対象として描かれる」「暴力の犠牲者として描かれる」「男性主人公を支える脇役として描かれる」といった、定番の描き方だ。トロープ批判は、こうしたパターンそのものが現実のジェンダー規範を無意識に強化してしまう可能性を問題にする。つまり、個別の刺激の強さではなく、女性の描写法そのものに制約を課す視点である。
これは、物語の作劇法そのものに制約を課す考え方だ。胸の大きさ程度でギャーギャー言う日本のフェミニストの方が間抜けに見える場面もあるが、作者の創造性を狭める力は、英米圏のトロープ批判の方が強い。
Laurie Pennyらの文化批評でも、フィクション内のトロープに対する強い非難語が使われやすい一方で、実在の複雑な事案に対しては「nuanced」や「context matters」といった相対化の語が対象によって使い分けられる傾向がある。

二つの境界線の違い
日本と英米圏で引かれている境界の主な違いを説明する。日本側は、家父長制からの解放という枠組みの中で、「女性が男性に与える刺激の大きさ」を重要な判断基準にしている。そのため、女性の欲望・視点として描かれた表現(BL)は擁護され、男性の視線・欲望として描かれた表現は批判される。
西側は、トロープという物語上の役割そのものを問題視する。フィクション内の描写のパターンに対してより構造的な批判が加わる。どちらも感情移入の強度が異なる対象に対して線を引いているが、どの部分に強い線を引くかはかなり違う。

なぜこのような違いが生まれるのか
境界の引き方の違いは、単なる理論の違いというより、防衛反応の方向性と、それを正当化する言説の蓄積の違いとして理解した方がわかりやすい。
女性として描かれる存在が痛みや屈辱を被る描写に対しては、感情移入が働きやすい。これは人間として自然な反応である。そして、その反応を「ここに線を引くべきだ」という境界として社会化しようとする。感情移入の強度は、誰が描かれているか、どの文化圏で語られているかによって大きく変わるため、境界画定の理論は、その場で使える知的資源と、批判者の思想に大きく依存する。
日本のフェミニズムは、家父長制を唯一の悪役として設定した。そのため、「男性目線でない」性的表現にはチェックが緩い。その結果が、「女性の主体性を守る」という理屈である。結果として生まれた境界は、女性の欲望・視点から描かれた表現を比較的寛容に扱い、男性の視線・欲望表現には厳しい。

最大の差異:BL作品
日本のBLでは、力関係の明確な上下関係(年の差、立場差、支配・被支配)を前面に出した作品が一定の人気を保っている。「女性のファンタジーとしての自由」や「家父長制的な関係性の再演・逆転」として擁護される。一方、西側のトロープ批判の視点から見ると、同じような力関係の強い描写は「有害なトロープ(権力の非対称性を美化・正常化するパターン)」として問題視され、作者に対する批判や監視が強まる。
同様に、レイプファンタジーや非合意的な要素を含むBL作品も、日本側では「フィクション内の欲望表現」として比較的広く許容されるのに対し、西側のトロープ批判では、男性同士の関係性における力の非対称性や被害の描写そのものが「有害なトロープ」として問題視される。
いずれの場合も、感情移入に基づく防衛反応を、普遍的な原則として確立しようとした結果、文化圏ごとに異なる線が引かれた。
1990年代のやおい論争では、ゲイ当事者の苦痛の声に対して、BL側は「フィクションだから現実とは無関係」「ほっといてください」と反論した。石田仁志は後に、この「ほっておいてください」という態度を「欲望の自律性」と「表象の横奪」が同時に成立している構造として理論的に整理した。この論文が西側につたわり、有害な関係性への規制が強化されたのは、皮肉な事態である。
つまるところ、表現規制の境界は、「誰の痛み」が優先され、誰の感情移入が社会的に正当化されるのかという権力闘争の産物である。感情移入の強度に依存する限り、境界線は常に「誰の側に立つか」によって引き直され、論理はその後に整えられるに過ぎない。

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