百舌鳥の速贄
庭の柿の木の枯れかけた枝に、小さな蛙が突き刺さっていた。
百舌鳥のけたたましい鳴き声がする。この辺りを縄張りにしている百舌鳥が速贄をしたのだろう。
あの突き刺さった蛙は私だ。
冬の風が吹き抜ける庭をぼんやり眺めていた。
夫は居間のソファで、さっきからずっと新聞を広げている。
「今日は何か予定があるの?」
「ああ… まあな」
曖昧に返事をするだけで、こちらを見向きもしない。
どうせゴルフの打ちっぱなしに行くくらいで、大した用事などないはずだ。
この家を建てた頃は、二人で庭の手入れをするのも楽しかった。柿の木を植えたのも、二人で決めたことだった。
「桃栗三年柿八年だぞ」
夫はそう言って、まだ細い苗木を眺めながら笑っていた。
いずれ立派な実をつけることを楽しみにしていたのだ。
そんな陽だまりのような空間は、この家の中のどこを探しても見つけられない。柿の木は律儀に毎年実をつけ、私たち夫婦の関心を誘っているというのに、今では会話の糸口にすら役立つこともなく、私たちの関係は枯れていくばかりだ。
「私は午後から英会話スクールだから、出掛けてくるわね」
「ああ… わかった」
夫が定年退職して二年が経った。 特に言い争いをしたわけではないが、夫の一挙手一投足に苛立ちを覚える。
夫は家にいるのに、家事を手伝うことはなく、ただ時間を持て余している。 そのくせテレビニュースで政治家のモラハラやセクハラなどの話題が始まると、
「時代遅れのオヤジがいるんだよ、今どき上司だからって威張っていられないのに、哀れだよな」と、他人事のように薄ら笑いを浮かべる。
「俺も部下相手に気を遣ったよ。すぐパワハラだのモラハラだの難癖付けて、こっちが悪者にされるんだからな」夫が息巻く。
外面は良いのだ。ご近所付き合いも物腰柔らかでそつがなく評判も上々だ。夫にしてみれば、さっきから糾弾されている政治家が自分と重なることはないのだ。
ただ夫にとって私は社会と寸断された状態で存在していて、あらゆるハラスメントにも該当しない。便利ツールのようなものだ。
縦のものを横にもしない、どこに何が仕舞われているかわからないから、些細な探し物でも私を呼びつけ、自分は座ったまま動こうともしない。
「私はお手伝いさんじゃないのよ」
喉元で痰が絡んだように言葉が詰まる。まるで枯れ枝に刺さった蛙の断末魔の叫びを飲み込んでいるように。
私たちに子どもがいたら、あるいはすれ違うことなく円満な家庭を築けていたのかもしれない。二人だけの時間はゆっくりと腐敗していったのだろう。
英会話スクールの友人たちは、お洒落に余念がなく、髪型も綺麗にセットされているし、爪の先まで抜かりがない。流行りの洋服で身を包み、年に数回は海外旅行を楽しんでいる。
「美奈子さんも一緒にイギリス旅行しない? 大英博物館やバッキンガム宮殿があるロンドンや、ピーターラビットで有名な湖水地方を予定に入れているのよ」
「そうね、行きたいけど、夫が何て言うかしら?」
「折角英会話の勉強しているんだし、現地でネイティブな英語に触れることも大切よ」
わかっている。私だって友人たちのように残りの人生を自分の為に謳歌したい。くたびれた流行遅れのワンピースを脱ぎ捨てて、キャリーバッグを新調し夢だった海外旅行を楽しみたい。
それなのに、いつも頭をもたげるのが夫の存在だ。
多分、反対はしないだろう。
でも、いざ私が留守をする時が迫ってくると「俺は何を食べればいいんだ?」 「掃除はどうするんだ?」 「洗濯は?」 と、あれこれ心配になり、挙げ句の果てには私を責めるに違いない。
「俺のことは放っておく気か、妻の勤めを果たせ」と、言葉にはしなくても、刺すような視線で追い詰めてくるのだ。
この暮らしに縛られたまま、私はあとどれくらい耐えられるのだろう?
夫のために日々をすり減らし、感謝の言葉ひとつ聞くこともなく自分を見失っていくのだ。
このままでは、私の時間は百舌鳥の速贄のように枝に囚われ、静かに干からびていく。
外では冬の風が枯れ葉を巻き上げる。
「イギリス旅行へ一緒に行かない?って、友だちに誘われたんだけど、行ってもいい?」
「主婦は良いご身分だな、まったく・・・」
夫のため息交じりの返事が耳元でハレーションを起こす。
辺りの色彩が一気に剥がれ落ちた。
窓の外で風に揺れる速贄がぼんやりと滲んで見える。
まだ間に合うだろうか?
このまま朽ち果ててしまう前に、ここから抜け出したい。
サイドボードの引き出しをゆっくり開け、離婚届を取り出した。
震える指先を落ち着かせるように深く息を吐く。
そして迷いを断ち切るように、紙の上に自分の名前を書いた。
柿の木の枝から、乾いた音を立てて何かが落ちた。
それは、速贄が解き放たれた音だったのだろうか?
了。 (1998字)
参加させていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
