古書店から明治の和菓子店にタイムワープした話(#シロクマ文芸部)
古本を手にした瞬間、嫌な予感が走った。
「何かに取り憑かれた」
そんな感覚で、背筋がゾクッとした。
だから慌ててその本を棚に戻し、急いで店の外へ飛び出した。
……はずだった。
目の前に広がっていたのは、見知らぬ古い町だった。
アスファルトの歩道は砂利道に変わり、道路を走っていた自動車は姿を消し、代わりに馬車や人力車が走っていた。
行き交う人の服装も、着物を着た人や袴姿の男性、中には軍服を着た兵士もいた。
咄嗟に元いた場所に戻ろうと振り返ると、そこに古本屋はなく、代わりに和菓子店の暖簾が掛かっていた。
僕は子どもの頃から霊感があった。
それは視覚や触覚、聴覚や臭覚でも感じることができた。
その感覚全部で分かる時と、どれか一つの感覚で分かる場合と色々あるが、この時はそのどれでもない思念のようなものを感じていた。
「どなたですか?」
不意に視界の下から声がした。
視線を下に向けると、十歳くらいの男の子がいた。その姿は藍色の木綿の着物を着ていて、『甘味処はし屋』と書かれた前掛けをしている。
「いや……その、ここはどこかな?」
店先を掃除していたのだろう、箒を持ったまま、怪訝な面持ちで僕を見ていた。
「ここですか、ここは新宿ですよ」
「新宿?」
いや、待て待て!
僕は今まで神田神保町の古書店街にいたはずだ。どうして新宿なんだ?
訳も分からず、その場に立ち尽くしていると、その少年は店内に入っていき、この店の店主と思しき五十代くらいの男性を連れて戻ってきた。
「この人です」と、その男性に僕の方を指差した。
着物姿が良く似合う恰幅の良い男性で、紋入りの羽織を着ていた。
「すみません……何でもありません」
そう言って店先から離れようとしたら、いきなり店主に腕をつかまれた。
「待ちなさい。中に入って!」
そう言って店内のベンチに座らされ、奥座敷から持ってきた本を見せられた。
その本はついさっき、古本屋で手に取った本だった。
「そ、それは……どうしたんですか? 棚に戻したはずですけど……」
そう口淀んでいると、店主がおもむろに話し出した。
「俺もな、この本を買って店を出たんだ。そうしたら明治時代にタイムワープしたって訳さ」
「タイムワープ?」
さっき目の当たりにした街の風景は、明治時代なのか?
「着てる服が変な人がいると丁稚が言うから、もしやと思っていたよ」
「それじゃ、あなたも?」
この人も令和の時代の人なのだろうか?
「そうだよ。元の時代に戻りたいけど、どうしたらいいのかわからないんだ。あれからもう十年になる。あんたもこの本買ったのか?」
「いいえ、僕は変な気配がしたので、買わずに棚に戻したんですけど、店を出たら、なぜかここにいて……」
和菓子店の店主は名前を中西 航といい、この時代にタイムワープしてから、和菓子店の店主になるまでの経緯を話してくれた。
行く当てのなかった中西さんは、この和菓子店で働かせてもらうことにしたそうだ。元々経営コンサルタントをしていた中西さんは、みるみるうちに和菓子店を繁盛させ、その腕を買われて養子縁組をし、店主となったのだという。
「最初は元の時代に戻ろうと、色々試したけどダメだった。今じゃもうこのままで良いかなと思い始めているよ。多分、妻も子どもも俺が行方不明のまま死んだと思っているだろうしな」
僕は嫌だ。絶対元の時代に、あの場所に戻りたい。
「安心しろ。この店で雇ってやるから」
中西さんは僕の背中を擦りながら、「安心しろ」ともう一度つぶやいた。
僕はゾッとした。そんなの嫌だ!
大学卒業したら就職するんだ。
内定だってもらっている。
恋人だってできたばかりで、美波や両親の顔が浮かんできた。
「僕は帰りたいです。絶対、帰りたいです!」
そう叫びながら、和菓子店の暖簾を払いのけ外へ駆け出した。
――あれっ!――
目の前には馴染みの景色が広がっていた。
馬車や人力車はどこにもない。
道路で立ち尽くしていると、クラクションを鳴らして赤い車が目の前を横切っていった。
思わず後退ると、ドンッと誰かとぶつかった。
反射的に「すみません」と謝りながら振り向くと、そこにはイヤフォンをした学生が尻もちをついていた。
「ごめんなさい、大丈夫ですか」
そう謝りながら、元の世界に戻ったことを確信していた。
見ると、尻もちをついた学生の後ろには、あの古書店のドアがあった。
あの古本は棚に戻したはず。なぜ中西さんが持っていたんだ?
ドアのガラス越しに店内の様子を伺うが、古本を戻した棚はこの角度からは見えない。
だが、もう一度入ってあの古本を確認する勇気はなかった。再び和菓子店の店先にタイムワープしたら、今度こそ戻ってこれないかもしれない。
僕は額に流れる冷や汗を手で拭い、神保町駅へ逃げるように走った。
あの時、何が起きたのかは分からない。
だが確かに、僕は明治時代に迷い込み中西さんと出会った感覚だけは、今もはっきりと覚えている。
