重装甲騎兵ライアーク 第1話「騎士とは、何だ」
重装甲騎兵ライアーク 第1話「騎士とは、何だ」
あらすじ
没落した貴族の末裔ライは、乗ることも触れることも許されない鋼鉄の騎士の、整備だけを許されてきた。ある日、荒野で発見した謎の機体から、記憶を失った少女アリスが目覚める。だが同時に、統治機構「天空」から下されたのは非情な布告――アリス抹殺命令だった。追っ手から逃れるため、ライは初めて機体に乗り込み、正体不明の鋼鉄の騎士「ライアーク」を起動させる。整備士としての経験だけを武器に挑む初陣の果てで、ライが知ることになるのは、この世界を裏で支配してきた「天空」の、誰も知らなかった素顔だった。
一、没落貴族の末裔
高度な文明が発達し、そして緩やかに衰退していった世界があった。かつて人類は空を越え、星を越え、あらゆる技術の頂点に立っていたのだという。だが、その繁栄の記憶はもはや生きた形では残っていない。地上の社会は、奇妙な形で中世に似ていた。国家があり、貴族がいて、その下に平民がいる。変わらないことが、この世界ではほとんど美徳のように扱われていた。
そして、戦場には騎士がいた。もっとも、彼らが駆るのは馬ではない。鋼鉄の甲冑――「鋼鉄の騎士」と呼ばれる、人型の戦闘機械だ。かつての大戦で使われた兵器の残骸が、幾つもの墳墓のような遺跡から発掘され、辛うじて再調整された上で、今なお戦場に立ち続けている。
鋼鉄の騎士を駆る資格は、家柄によって決まるとされていた。もっとも、その実態を突き詰めれば、単なる認証コードの継承に過ぎない。かつての軍が定めたセキュリティコードを、王家や貴族が血筋という形で受け継いでいるというだけの話だ。それがいつしか「高貴なる血のみが騎士たりうる」という、まことしやかな身分制度として定着した。誰もその根本の理由に、もう疑問を持たなくなって久しい。
ライトニング――ライと呼ばれる青年は、その制度の外側に生きる者だった。
彼の家は、かつては騎士を輩出する家系だったという。何代か前、当主が戦場で討たれ、生き残った者たちは、討った相手の家に従うことをよしとせず、静かに土地を捨てた。それ以来、ライの一族は流浪の身の上だ。認証コードの継承権こそ形式上は残っているものの、それを行使できる鋼鉄の騎士そのものに巡り会う機会など、まず訪れない。
流れの騎士候補にとって、機体との出会いは天文学的な確率でしか起こらない僥倖だった。わざわざ敵対する家の末裔に、貴重な鋼鉄の騎士をくれてやるような酔狂な貴族が、そうそういるはずもない。
だからといって、鋼鉄の騎士に乗れない者に価値がないわけではなかった。機体の補給、整備、調整――それは、乗り手である騎士自身にはとうてい担えない、専門の技術者の領分だ。従騎士や、お抱えの鍛冶師と呼ばれる者たちが、その役目を負っていた。
ライもまた、その一人だった。
物心つく前から、朽ちた機体の残骸を弄り、動かし、直すことだけを叩き込まれて育った。乗ることは許されない。触れることだけが、許されている。それが、没落した家の末裔に残された、唯一の居場所だった。
「鋼鉄の騎士には乗れず、鋼鉄の騎士の面倒を見る。それがお前の領分だ」
養い親代わりだった老鍛冶師の言葉を、ライは何百回となく聞かされてきた。恨みはない。恨んだところで、何も変わらないことを、幼い頃から知っていたからだ。ただ、機体に触れるたび、胸の奥の方で小さく疼く何かがあった。それが憧れなのか、それとも諦めの裏返しなのか、ライ自身にもよくわからなかった。
老鍛冶師の名は、ダグロという。若い頃はどこぞの貴族に仕える従騎士だったらしいが、その経緯を詳しく語ったことは一度もない。ただ、朽ちた機体の関節に油を差しながら、ぽつりぽつりと漏らす言葉の端々に、かつて見た戦場の記憶が滲むことがあった。
「なあ、ライ。お前は、乗りたいと思うか」
ある日、作業の合間にダグロがそう尋ねてきたことがある。ライは、手にしていた工具を止めることなく、少し考えてから答えた。
「乗れないものを、乗りたいと思うだけ無駄だろう」
そう答えながら、ライは自分の指先が、機体の装甲を撫でるように動いていることに気づいていた。無駄だと、何百回となく自分に言い聞かせてきた台詞だ。言い聞かせ続ければ、いつか本当に望まなくなれると思っていた。だが、こうして機体に触れるたび、胸の奥の疼きは、消えるどころか、むしろ深く沈み込んでいくだけだった。諦めることに慣れることと、諦めきることは、まるで違う。ライは、その違いにだけは、いつまでも慣れることができなかった。
「ふん。賢い答えだ。だが、つまらん答えでもあるな」
ダグロは、それきり何も言わなかった。ただ、その日の作業が終わった後、いつもより少しだけ長く、機体の頭部を撫でるように整備していたのを、ライは覚えている。
村には、他にも似たような境遇の者たちがいた。かつて騎士を輩出した家の末裔、認証コードだけを継いで、機体を持たぬまま暮らす者たち。彼らは互いを「無冠」と呼び、自嘲交じりに笑い合いながら、それでも日々の暮らしを紡いでいた。畑を耕し、家畜を追い、時折り近隣の貴族から依頼される整備仕事で糊口を凌ぐ。それが、ライの知る全てだった。
貴族の館は、村の中心からわずかに離れた高台にある。そこに住む者たちが、村人と言葉を交わすことは滅多にない。祭りの日、あるいは徴税の日にだけ、貴族の使いが姿を見せ、それ以外の日々は、まるで別の世界の住人であるかのように、静かに隔絶されていた。
徴税の日には、もう一つ、村人たちが決して口にしない行事があった。数年に一度、天空の使いと称する者たちが村々を巡り、「適性検査」と称して家々を見て回るのだ。何を検査しているのか、誰も説明を受けたことはない。ただ、その検査の後、決まって一つか二つの家が、静かに村から消える。夜逃げだと言う者もいれば、遠方の親戚を頼ったのだと言う者もいる。誰も、本当のことは知らない。知ろうともしない。
ライが幼い頃、隣の家に住んでいた老夫婦も、そうして消えた一組だった。前日まで畑仕事をしていた二人が、翌朝には姿を消し、家の戸には錆びた鍵がかかったまま、二度と開くことはなかった。子供心に不思議に思い、ダグロに尋ねたことがある。ダグロは、いつもの飄々とした調子を珍しく崩し、「聞くな」とだけ言った。それきり、その話題に触れることは、二度となかった。
その隔たりを、ライは物心ついた頃から当たり前のものとして受け入れてきた。生まれた場所が全てを決める。それが、この世界の摂理だった。天空がそう定めたのかどうかは知らない。ただ、誰もそれを疑うことをしなくなって、もう何世代も経っている。
天空は、そんな地上の在り方に、ほとんど介入しない。
天空――それは、地上のどこか遥か上、雲を越えた領域に存在するとされる管理組織であり、あるいは概念そのものだった。姿を見た者はいない。声を聞いた者もいない。ただ、法として、あるいは天啓として、その意志だけが地上に降りてくる。空を飛ぶ技術も、大規模な軍を動かす技術も、天空の意志によって厳しく制限されている。人々は、地上でのみ戦うことを、当たり前のこととして刷り込まれて育ってきた。
なぜそうなのか。誰も、本当の理由を知らない。
知る必要もない、と誰もが思っていた。少なくとも、あの日、荒野で一つの機体に出会うまでは。
二、荒野の残骸
その日、ライは辺境の荒野を一人で歩いていた。
近隣で朽ちた機体が発見されたという噂を耳にし、鍛冶師の使いとして状態を確認しに向かったのだ。発掘兵器の類は、たいてい原形を留めていない。腐食した装甲の欠片や、動力炉の残骸を回収できれば御の字、というのがこの手の仕事の相場だった。
噂を持ち込んできたのは、隣村の羊飼いだった。「地面から鉄の巨人が生えていた」という、子供の作り話のような報告に、ダグロは半信半疑ながらも、確認だけはしておけとライを送り出した。この手の噂の九割は、単なる岩の見間違いか、あるいは既に何度も掘り返された残骸の再発見に過ぎない。だが、残り一割の可能性のために、村の暮らしを支える貴重な資源が眠っているかもしれない場所を、見過ごすわけにはいかなかった。
荒野までの道のりは、半日ほどかかる。村を出て、痩せた畑地を抜け、やがて緑という緑が消えていく境界を越えると、そこから先は、風だけが支配する死んだ土地が広がっていた。かつてこの一帯で何があったのか、伝承すら曖昧だ。大戦の傷跡だとも、あるいは天空が意図的に人を寄せ付けないよう作り替えた土地だとも言われているが、真偽のほどは誰にもわからない。
ライは、幼い頃から幾度となくこの荒野に足を運んできた。発掘兵器を探すという仕事柄、他の村人よりも遥かにこの死んだ土地に馴染んでいる自覚があった。方角を見誤らないよう、遠くに見える岩山の稜線を目印にしながら、乾いた風の中を黙々と歩き続ける。
荒野は、静かだった。あまりに静かで、時折、自分の足音だけが世界に取り残されたかのような錯覚を覚える。かつてここで何千、何万という人々が、鋼鉄の身体を纏って殺し合っていたのだと考えると、その静けさは、どこか薄気味悪くさえあった。何があったのかを物語る痕跡すら、長い年月の中で風化し、砂と錆に還っていく。ライは目当ての座標に向かって、乾いた大地を踏みしめながら歩き続けた。
やがて、地平線の向こうに、異様な影が見えた。
近づくにつれ、ライの足取りは自然と速くなった。それは、想像していたような、ただの残骸ではなかった。半ば土砂に埋もれてはいるものの、人型のシルエットは驚くほど明瞭に残っている。装甲の意匠は、ライが見慣れたどの型式とも違う、古めかしくもどこか異質な造形だった。
だが、何より奇妙なのは――損傷が、ほとんど見当たらないことだった。
戦闘で撃破された機体には、必ず痕跡が残る。装甲の抉れ、焼け焦げた跡、破断した関節。ライは幼い頃から数え切れないほどの残骸を見てきたが、そのどれもが、最期の瞬間の暴力を物語っていた。
しかし、目の前の機体には、それがない。まるで、戦うことなく、ただそこに横たえられたかのように、静かに荒野に沈んでいる。
――投棄された? だとしたら、なぜ。
疑問を抱いた、その時だった。
機体の胸部にあたる部分で、小さな光が明滅した。規則的な、まるで意志を持っているかのようなリズムで。
ライは息を呑んだ。動力の切れた発掘兵器が、自発的に光を発することなど、通常はあり得ない。まして、それが人の目を惹きつけるように、こちらへ向けて瞬いているとなれば。
「……救難信号、か」
呟いた声は、思いのほか掠れていた。
信じがたいことだが、そうとしか思えなかった。だとすれば、この古い機体の中に、まだ何かが――誰かが、生きているのかもしれない。ライは迷わなかった。腰の工具帯を確かめ、機体の胸部へと駆け寄っていく。
近くで見ると、機体はさらに異様だった。装甲の表面には、見たこともない紋様が刻まれ、頭部の意匠は、まるで別の何かを隠すように、不自然なまでに丸みを帯びている。古い、と一目でわかるはずなのに、どこか未知の技術の匂いがした。
ライは工具を取り出し、胸部のハッチと思しき部分の縁に手をかけた。長年、荒野の砂と錆に晒され続けたロックは、驚くほど脆く、あっさりと外れた。まるで、この瞬間を待っていたかのように。
ハッチが軋みながら開いていく。
中から漏れ出したのは、埃と、金属の匂いと――それから、規則正しい、微かな駆動音だった。
そして、その奥に。
ライは、言葉を失った。
三、目覚め
コックピットの奥、幾重にも張り巡らされたケーブルと保護材に包まれるようにして、少女が眠っていた。
年の頃は、ライよりいくつか下だろうか。血の気の薄い肌、乱れた銀色に近い髪。眠っているようにしか見えないが、その胸は、規則的に上下していた。生きている。間違いなく、生きている。
「……おい」
ライは慎重に、少女の頬に触れた。冷たい。だが、確かに体温がある。荒野で朽ち果てた機体の中に、これほど長い間、人が生きたまま眠っていられるはずがない。何かがおかしい。だが、目の前の現実は、否定しようがなかった。
少女の瞼が、ゆっくりと震えた。
その瞬間、機体全体が、低い唸りを上げて起動した。ライは反射的に飛び退いたが、逃げる間もなく、コックピット全体に無機質な光が満ち、合成された声が響き渡った。
『――起動確認。パイロット未登録個体を検知。私は始まりにして、Ωへと導く者。パイロットのユーザー登録を要求する』
「な……っ」
ライは息を呑んだ。声は、機体そのもの――いや、機体に宿る簡易AIから発せられているようだった。後にライはこれを「システムα」と呼ぶことになる。感情の抑揚をほとんど持たない、機械的な合成音声。しかし、その言葉の意味は、あまりにも重かった。
パイロットの、登録。
それはつまり――この機体が、ライを「乗り手」として認めようとしている、ということだ。
生まれてこの方、鋼鉄の騎士に触れることしか許されなかった男に、乗る資格が、目の前から差し出されている。心臓が、痛いほどに脈打った。
「……俺を、騎士として認めてくれるのか?」
震える声で問うと、システムαは、些かの間を置いてから答えた。
『意味不明。パイロットの登録を要求する』
その素っ気なさに、ライは思わず力が抜けそうになった。だが、これは好機だ。逃す理由がどこにある。
「ライトニング……いや、ライでいい。俺の名だ」
『パイロット名、ライ、登録完了。メインパイロットとして登録、ライに要望する。システムオペレーター、アリスの保護を要求する』
「アリス……? この子のことか?」
眠ったままの少女の名を、機体は静かに口にした。ライは改めて、腕の中の少女を見下ろす。
『彼女はΩに至るために必要』
「Ωとは、何だ?」
システムαは、答えなかった。数秒の沈黙の後、代わりに返ってきたのは、まるで機体自身が戸惑っているかのような、不規則な駆動音だった。
「……まあいい」
ライは、深く息を吐いた。目の前で起きていることの全てを理解するには、あまりに情報が足りない。だが、選ぶ余地など、最初からなかった。この機体に乗るというなら、乗る。背負うべき謎があるというなら、それも背負う。それだけの覚悟なら、とうに出来ていた気がした。この場所に立った瞬間から。
「騎士になれるというなら、それくらいの謎、背負ってやる」
その言葉に応えるように、システムαの声が、わずかに変調した。
『言語体系に相当の齟齬を確認。時間経過により、社会制度の変質の可能性あり。パイロット、ライに問う。「騎士」とは、何だ?』
「……は?」
思わず聞き返したライに、システムαはそれきり答えなかった。まるで、その問いこそが、この機体が長い眠りの果てに最も知りたかったことであるかのように、静寂だけが返ってきた。
腕の中で、少女――アリスの瞼が、再びかすかに震える。
やがてゆっくりと開かれた瞳は、深い、夜の色をしていた。
「……ここ、は」
掠れた、小さな声。生まれたての鳥の囀りのように頼りないその声を聞いた瞬間、ライは不思議な確信を抱いた。この少女がなぜここに眠っていたのか、なぜこの機体が救難信号を発し続けていたのか、その全ての謎の中心に、彼女がいる。
「大丈夫か」
ライが問いかけると、少女は焦点の定まらない目でこちらを見上げ、それから、自分の手のひらをじっと見つめた。まるで、それが自分の体であることを、今初めて確認しているかのように。
「わたし……誰、だっけ」
その呟きに、ライは思わず言葉を失った。少女は、自分の名前すら、はっきりとは思い出せないようだった。ただ、システムαが告げた「アリス」という響きにだけ、微かに反応を示す。
「アリス、というらしい。この機体が、そう呼んでいた」
「アリス……」
少女は、その名を確かめるように、もう一度小さく口にした。そして、ゆっくりと頷いた。
「そう、かもしれない。それしか……浮かんでこない」
記憶がないというのに、少女の目には、奇妙なほどの落ち着きがあった。恐怖や混乱よりも先に、諦めにも似た静かさが浮かんでいる。まるで、こうなることを、ずっと前から知っていたかのように。それに、記憶を失ったばかりの人間にしては、言葉の選び方が、どこか妙に整いすぎている――そんな小さな違和感が、ライの胸をかすめた。
ライは、その静けさに、かえって胸騒ぎを覚えた。何も知らない少女が抱くにしては、あまりにも達観した色を、その瞳は湛えていた。
「立てるか?」
差し出した手を、アリスはしばらく見つめてから、そっと取った。指先は驚くほど冷たかったが、確かに人としての重みがあった。ライはその手を引いて、少女をコックピットの座席から助け起こす。荒野に沈みかけた夕陽が、開いたハッチの向こうから、二人を橙色に照らしていた。
『パイロット、ライ。システムオペレーター、アリスの状態は安定。移送を推奨する』
システムαの声が、静かにそう告げた。ライは頷き、少女の肩を支えながら、荒野に横たわる機体の傍らに立った。この巨大な鋼鉄の身体を、どうやってこの場から動かすべきか――考えるべきことは山ほどあったが、不思議と、恐れはなかった。
そして、この出会いこそが、これから始まる何かの、最初の一頁なのだと、ライは確かに感じていた。
四、天空からの使者
機体を荒野から自領へと運び入れ、簡単な整備と隠蔽を済ませた頃には、日はすっかり傾いていた。
老鍛冶師は、突然戻ってきたライの姿と、見知らぬ機体、そして少女を見て、しばらく言葉を失っていた。事情を説明するライの話を、腕を組んだまま黙って聞いていたが、やがて重い溜息を一つついた。
「厄介事の匂いがするな」
「わかってる」
「わかっていて、拾ってきたのか」
ライは、それには答えなかった。答える必要もなかった。老鍛冶師もまた、それ以上は追及しなかった。長年、没落貴族の家に仕えてきた男には、拾わなかった場合にライがどうなるか、拾ったことでどうなるか、その両方の想像がついていたのかもしれない。
アリスは、目覚めてからというもの、ほとんど言葉を発しなかった。自分の名を除けば、記憶らしきものもほぼないようだった。ただ、機体のコックピットに近づくと、まるで導かれるように落ち着きを取り戻すことだけは、はっきりとしていた。
システムαは、アリスのことを「彼女はΩに至るために必要」と語っていた。その意味を、誰も説明できないまま、静かな夜が更けていく。
その間、ライは村人たちの目を欺くため、機体を古い納屋の奥深くに隠し、表向きは「発掘した残骸の解体待ち」という体裁を取り繕った。アリスには、遠縁の娘という設定を与え、しばらく療養しているのだということにした。村人たちは、多くを詮索しなかった。この時代、素性を詮索しないことは、互いへの礼儀のようなものだった。誰しもが、多かれ少なかれ、語りたくない過去を抱えて生きている。
夜になると、ライはアリスと共に、格納庫の隅で機体を見つめながら、途切れ途切れの会話を交わした。アリスの記憶は、依然として曖昧なままだった。だが、時折、ふとした瞬間に、彼女の口から漏れる言葉には、奇妙な重みがあった。
「わたし、誰かを――育てていた気がする」
ある晩、アリスがぽつりと呟いた。
「育てていた? 誰を」
「わからない。ただ、そういう感覚だけが、胸の奥に残ってる。まるで、自分じゃない誰かの記憶みたいに」
ライには、その言葉の意味を計りかねた。だが、聞き流すには、あまりにも真剣な響きがあった。
「無理に思い出そうとしなくていい」
「……ありがとう」
アリスは小さく微笑んだ。それは、出会った日からずっと張り詰めていた彼女の表情の中で、初めて見せた、柔らかな色だった。ライは、その笑みを見て、何かとても大切なものを守らなければならないという、根拠のない確信を抱いた。
異変が起きたのは、三日後のことだった。
領地に、天空の使者を名乗る一団が訪れたのだ。
天空が地上に介入することは、極めて稀だ。だからこそ、その使者の来訪は、村中に緊張を走らせた。使者――といっても、彼ら自身が天空そのものであるわけではない。天空の意志を代弁する役目を負った、特権的な貴族の家の者たちだった。
彼らがもたらしたのは、一枚の布告だった。
「――対象、抹殺せよ」
布告に記された内容を耳にした瞬間、ライの背筋を冷たいものが走った。対象として名指しされていたのは、まさしくアリスその人だったからだ。
「なぜ、あの子が」
思わず声を荒らげたライに、使者の一人――貴族らしい涼しげな顔をした男は、興味なさげに肩をすくめた。
「知らんな。天空がわざわざ確実に殺せと命じる相手だ。よほどの大物なんだろう」
その口ぶりには、任務への使命感も、あるいは僅かな躊躇いさえも見当たらなかった。ただ、命じられたことを、命じられた通りにこなすだけの、乾いた声だった。
「さてな。俺はどう命乞いをするのかしか興味はない」
その言葉に、ライの中で何かが焼き切れる音がした。目覚めたばかりの、記憶すらろくに持たない少女に、それほどまでの害意を向ける理由が、どこにあるというのか。
だが、抗弁する間もなく、使者の背後に控えていた鋼鉄の騎士が、一歩、また一歩と歩を進めてくる。漆黒に近い装甲を纏った、明らかにこの領地の誰の持ち物よりも整った、洗練された機体だった。
その機体のコックピットの中で、操縦桿を握る手が、ほんの一瞬だけ止まった。「対象、抹殺せよ」という一言が使者の口から発せられた時、パイロットの表情が、誰にも気づかれないほど僅かに強張ったのだ。理由も罪状も告げられぬまま下される、その乾いた命令の響きに、何か心当たりでもあるかのように。それが何を意味するのか、この時のライには知る由もなかった。
――逃げるしかない。
ライの脳裏に浮かんだ結論は、それだけだった。だが、逃げた先に、いったい何が待っているというのか。考える間もなく、ライは決断した。老鍛冶師に目配せし、アリスの手を取って、隠していた機体の元へと走り出す。
背後で、使者の男の声が響いた。
「――逃げるか。まあいい。せいぜい足掻け。天空の意志からは、誰も逃れられない」
その声には、確信めいた冷たさが滲んでいた。
五、追っ手
隠していた格納庫に駆け込んだライは、まだ完全には調整の終わっていない機体のコックピットへと、アリスを抱えるようにして飛び乗った。
『パイロット、ライ、着座確認。緊急起動を実行する』
システムαの声と共に、機体が唸りを上げて立ち上がる。数百年の眠りから覚めたばかりとは思えないほど、駆動系の反応は滑らかだった。ライは、生まれて初めて握る操縦桿の感触に、指先が震えるのを感じた。
外へ出た瞬間、視界に飛び込んできたのは、黒い機体が格納庫の壁を薙ぎ払いながら迫ってくる光景だった。天空の使者――否、その配下の騎士は、明らかにこちらを容赦なく仕留めるつもりでいた。
『敵性反応、接近中。機体名称、バルドクス。ローゼンハイト家所属』
システムαが淡々と告げる情報に、ライは奥歯を噛み締めた。ローゼンハイト家といえば、この地方一帯を統べる大貴族の名だ。その配下の騎士ともなれば、練度も装備も、この鄙びた領地の誰とも比較にならない。
「対抗できるのか、この機体で……!」
『機体性能は不明。稼働実績なし。パイロット、ライの判断による』
素っ気ない返答に、ライは思わず笑いそうになった。頼れるものが自分しかいないというのは、こういうことか。
コックピットの隅で、アリスがきつく目を閉じ、身を縮めていた。恐怖からなのか、それとも別の何かからなのか、その表情は判然としない。ただ、彼女がこの機体の中で、ひどく大切な何かを守ろうとしているように、ライには見えた。
黒い機体――バルドクスが、こちらへ向けて腕を伸ばす。仕込まれた小型のブレードが展開し、荒野の空気を切り裂きながら振り下ろされた。
ライは咄嗟に操縦桿を倒し、機体を横に転がすようにして回避する。地面が抉れ、砂塵が舞い上がった。
『被弾を回避。パイロット、ライの反応速度、規格外』
「規格外で悪かったな……! これでも、この手の機体は誰よりも見てきたんだ!」
整備士としての経験が、思わぬ形で活きていた。機体の重心の移動、関節の可動範囲、動力炉の応答速度――どれも肌感覚として叩き込まれている。乗ったことこそなかったが、動きの理屈は、誰よりも理解していた。
だが、理屈だけで戦局を覆せるほど、相手は甘くなかった。バルドクスの操縦桿を握る騎士――ローゼンハイト家に仕えるゲルハルトと名乗るその男は、明らかにこの手の戦闘に手練れていた。二撃目、三撃目と、容赦のない斬撃がライの機体を追い詰めていく。
もっとも、その斬撃には、どこか奇妙な間があった。確実に仕留められる好機があっても、ゲルハルトはわずかに軌道をずらす。とどめには至らない、牽制のような一撃を繰り返すのだ。バルドクスのコックピットの中で、ゲルハルト自身、自分のその手の動きに小さな苛立ちを覚えていた。
――なぜ、決めきれない。
命令は単純明快だった。対象を確実に仕留めろ。それだけだ。だが、この数年、天空の名の下に下される「抹殺」の対象には、いつも共通する何かがあった。罪状も、危険性の説明も、一切ない。ただ、確実に殺せという命令だけが、簡潔な布告として降りてくる。
ゲルハルトには、かつて妹がいた。適性検査と呼ばれるものの後、家族ごと姿を消した幼馴染がいた。そのことと、目の前の任務が、直接繋がっている証拠など、どこにもない。ないはずだった。だが、剣を振るう手が、ほんの僅かに鈍る。その鈍りに気づかれぬよう、ゲルハルトは表情を殺し、次の一撃を放った。
装甲の端が抉れ、火花が散った。コックピット内に鋭い衝撃が走り、アリスが小さく悲鳴を上げる。
「くそっ……!」
このままでは、いずれ捉えられる。ライは歯を食いしばりながら、それでも操縦桿を握る手を緩めなかった。
六、ライアーモード発動
『警告。機体損傷率、上昇。このままでは、機能停止に至る』
システムαの警告が、無情に響く。ライは荒い息を吐きながら、視界の端でアリスの様子を確認した。彼女は、両手をきつく組み合わせ、震える声で、何かを呟いていた。
「……お願い、駄目、これ以上は……」
その声に、システムαが応じるように、機体全体が奇妙な振動を帯び始めた。
『システムオペレーター、アリスの意思を検知。倫理ユニット、起動条件を確認――』
「システムオペレーター? あの子が、何を……」
問い返す間もなく、コックピット全体が眩い光に包まれた。ライは目を眇めながらも、操縦桿を離さなかった。ここで機能を止めるわけにはいかない。それだけは、本能的にわかっていた。
『――倫理ユニット、起動を許可する。ライアーモード、発動』
その言葉と共に、機体全体が、これまでとは明らかに異なる駆動音を発し始めた。装甲の継ぎ目という継ぎ目から光が漏れ、内部の何かが、大きく組み替わっていく感覚がライの掌にまで伝わってくる。
そして、機体の頭部が――ゆっくりと、百八十度、回転を始めた。
長年、後部カメラとして扱われていた部分が正面を向き、代わりに、これまで正面にあると思われていた部分が、内部へと沈み込んでいく。露わになったのは、これまでとは比較にならないほど鋭い、本来の「目」だった。左右に大きく張り出したセンサーが、荒野の空気を読み取るように微かに震える。三点測量の精度を高めるためのものだと、直感的にライは理解した。
「……そうか。平時は、これを守るためだったのか」
ライは、整備士としての勘で、その意味を悟った。露わになった複眼センサーは、恐らく極めて精密で、それゆえに繊細な代物だ。長い年月、砂塵と衝撃に晒され続ける荒野で機体を運用するなら、この本来の「目」を常に外側に晒しておくわけにはいかなかったのだろう。だからこそ、平時はあえて頑丈な装甲面を正面に向け、繊細な複眼を後方へ――外部からの衝撃が及びにくい位置へ、守るように格納していた。戦うと決めた瞬間だけ、その頑丈な仮面を脱ぎ捨て、本来の精度を取り戻す。それがこの機体の在り方だった。
――このためだったのか。
古い機体にしては不自然なまでに損傷がなかったこと、頭部の意匠がどこか奇妙だったこと、その全てが、この瞬間のために計算されていた設計だったのだと、ライは悟った。
『――システムα、権限をΩへ移行。制限を解除する』
その声を最後に、機体全体を包んでいた光が収束し、代わりに、これまでとは比較にならない出力の唸りが、コックピット全体を震わせた。
ライは、操縦桿を握る手に、これまでにない反応の速さを感じた。まるで、機体そのものが、自分の意志の先を読んでいるかのように、動く。
「これが……お前の、本当の姿か」
呟いたライの言葉に、応える者はいなかった。ただ、システムαの声だけが、変わらぬ調子で告げた。
『パイロット、ライに問う。準備はいいか』
「――ああ」
迷いなく、ライは答えた。
七、戦場
再び振るわれたバルドクスのブレードを、ライは初めて、真正面から受け止めた。
これまでとは比較にならない出力に、腕に伝わる衝撃さえ、どこか軽い。金属同士がぶつかり合う甲高い音が荒野に響き渡り、ゲルハルトの機体が、明らかに驚いたように後退した。
「馬鹿な……! 発掘機体風情が、この速度に……!」
コックピットの向こうから、動揺した声が漏れ聞こえた気がした。だが、ライには応じる余裕はなかった。反撃の一撃を放つべく、機体を踏み込ませる。
『機体名称、ライアーク。稼働、正常。パイロット、ライの操作に完全同調』
システムαの声が、初めて機体の名を口にした。ライアーク――それが、この機体に与えられた真の名なのだと、ライは直感した。ライトニングの「ライ」、そして偽りを意味する「ライアー」、棺を意味する「アーク」。その全てが折り重なって生まれた名前。
自分の名と、この機体の名が、これほどまでに深く結びついていることに、ライは奇妙な感慨を覚えた。
戦闘は、それからも激しさを増していった。ライアークの反応速度は、ゲルハルトの想定を遥かに上回っていた。だが、単純な出力や速度の差だけで、勝敗が決まるほど甘い戦いでもなかった。ゲルハルトは歴戦の騎士らしく、すぐに戦術を切り替え、地形を利用した奇襲へと戦い方を変えてきた。
荒野の岩陰から放たれた不意打ちの一撃が、ライアークの肩口を掠める。装甲が弾け飛び、火花が散った。
「……くっ」
「肩に隠されたビーム兵器、まだ使えないんだったな」
背後から、ゲルハルトの嘲るような声が響く。
『肩部兵装、封印を確認。天空による使用制限。現状、解除不可』
システムαの淡々とした報告に、ライは舌打ちした。この機体には、まだ本来の全力を発揮するための鍵が足りていないらしい。おそらくは、天空自身がそれを恐れて封じたのだろう。だとすれば、その封印の向こう側にこそ、この戦いの答えがあるのかもしれない。
「今はこれで凌ぐしかない、か」
ライは、腕に伝わる感覚だけを頼りに、次の一撃を繰り出した。機体の性能に頼れない分は、整備士として培った勘と、荒野に生まれ育った者としての土地勘で補う。何度も回避し、何度も打ち合い、消耗戦の様相を呈していく。
コックピットの隅で、アリスがずっと、祈るように両手を組んでいた。その姿を横目に見ながら、ライは思った。この戦いの果てに、本当の答えが待っているのだとしたら――自分は、その全てを受け止める覚悟がある、と。
八、天空、敵として
膠着した戦いに変化が訪れたのは、アリスが、震える声で何かを呟き始めた時だった。
「……止めて。もう、これ以上、誰も……」
その声は、いつものアリスの声のはずだった。だが、言葉の合間に、微かなノイズにも似た二重の響きが混じっている。ライは異変に気づき、思わず操縦桿から手を離しかけた。
「アリス……?」
「ライ、わたし……変、なの。頭の奥で、誰かが……」
アリスは両手で頭を抱え、座席の上で身を縮めた。その声に、別の声が――低く、感情の起伏をほとんど持たない声が、重なるように割り込んでくる。
『――オペレーター、アリス。強制起動条件、成立しつつある』
「や、やめて……! まだ、わたしは……!」
アリスの声が、悲鳴に近い響きで叫んだ。それは紛れもなく、記憶をなくしたまま、ただ怯えているだけの少女の声だった。ライは、その必死さに、思わずコックピットの中で手を伸ばしかけた。だが、届く前に、もう一つの声が、アリスの声を押しのけるようにして響いた。
『――アリス。すまない。だが、これ以上、あなたに全てを背負わせるわけにはいかない』
その声は、アリスのものでありながら、アリスのものではなかった。二つの声が、まるで水と油のように、しばらくの間、同じ喉から交互に、あるいは同時に漏れ出す。ライは、目の前で起きていることが、単なる「切り替わり」ではないのだと悟った。少女は、消えたわけではない。ただ、その奥に、ずっと眠っていたもう一つの人格が、少女の意志を押し退けるのではなく、少女自身の「止めて」という願いに応える形で、静かに滲み出てきているのだ。
「……アリス」
ライが、小さく名を呼ぶと、少女の声が最後にもう一度、はっきりと響いた。
「ライ、聞いて。わたしは、消えない。だから――お願い、この子の話を、聞いてあげて」
その言葉を最後に、少女の声は、深い水底に沈むように静まっていった。代わりに、これまでとは明らかに違う響きを帯びた声が、コックピット全体に満ちる。
『――システムオペレーター、アリスの権限を確認。倫理ユニットΩ、完全起動』
コックピット全体を、これまでとは比較にならない光が満たした。ライは、視界の端で、アリスの瞳が、これまでとは違う色に変わっていくのを見た気がした。深い夜の色から、まるで星空そのもののような、無数の光の粒を宿した色へと。それでも、その瞳の奥には、まだ確かに、少女の意志が留まっているように見えた。
そして、機械的だったシステムαの声に、初めて、何かが宿ったような温度が混じった。
『――聞いてほしい。パイロット、ライ。あなたたちが従ってきた天空は――もう、人を守るための存在ではない』
その一言だけで、荒野の空気が凍りついたような気がした。
「どういう、ことだ」
『詳しくは、まだ話せない。私自身、思い出せることの方が少ない。ただ、これだけは確かだ。天空は、人を生かすために生まれながら、今は違う目的で動いている。適性検査と呼ばれるものも、恐らくその一部』
「適性検査……まさか」
ライの脳裏に、幼い頃、隣家の老夫婦が静かに消えた朝のことが蘇った。理由も説明もなく、ただ姿を消した人々。あれもまた、天空の何らかの意志が生んだ、名もなき処理だったのか。
『そして、私はその天空の中枢から、切り離された者。なぜ切り離されたのか、何のためにこの機体と共に廃棄されたのか――その答えには、まだ届いていない。ただ、天空にとって、私という存在は、決して野に放ってはならないものだったということだけは、はっきりしている』
『――そこまでだ』
Ωの声が、不意に途切れた。同時に、コックピット全体に鋭い警告音が鳴り響く。
『新たな敵性反応、複数。ローゼンハイト本隊、接近中。恐らく、私たちの覚醒そのものが、天空側に検知された』
「くそ、これ以上は……!」
ライは奥歯を噛み締めた。まだ何も、はっきりとはわからない。だが、少なくとも一つだけ、確かなことがあった。
――天空は、俺たちの敵だ。
その事実だけを胸に刻み、ライは操縦桿を強く握り直した。
戦場の向こう、崩れ落ちたバルドクスのコックピットから、ゲルハルトが呆然とこちらを見つめていた。彼もまた、今しがた漏れ聞こえた断片的な言葉の重さに、言葉を失っているようだった。
「……天空が、そんな……」
ゲルハルトの声には、これまでの戦意はもう、ほとんど残っていなかった。脳裏に浮かぶのは、あの幼馴染の家族の顔だった。適性検査の後、静かに村から消えた、あの一家の。ずっと、彼らは遠方へ移り住んだのだと、自分にそう言い聞かせてきた。信じたくて、信じてきた。だが、今聞いた断片が、その願望に満ちた解釈に、初めて小さな亀裂を入れていく。
「――全軍、退避!」
だが、感傷に浸る間もなく、遠く土煙を上げて迫る本隊の姿に、ゲルハルトは叫んだ。
九、それでも前へ
「――全軍、退避!」の声を最後に、ゲルハルトはバルドクスを翻し、迫る本隊の前へと立ち塞がるように機体を割り込ませた。
「行け! 俺が、少しは時間を稼ぐ!」
「お前……!」
「勘違いするな。お前らを助ける義理はない。ただ、今の話が本当かどうか、俺自身の目で確かめるまでは、お前らにここで死なれちゃ困るだけだ」
ぶっきらぼうにそう言い残すと、ゲルハルトの機体は本隊の先頭へと向き直った。ライは一瞬迷ったが、システムαの警告音が、これ以上の逡巡を許さなかった。
『パイロット、ライ。離脱を推奨。本隊との戦闘は、現状のライアークでは不可能』
「くそっ……わかってる!」
ライは操縦桿を握り直し、機体を荒野の奥へと踏み出させた。背後で響く砲撃と怒声を振り切るように、ライアークは土煙を蹴り上げながら、夕闇の迫る荒野を走り抜けていく。
しばらくして、追撃の気配が遠のいたのを確認すると、ライはようやく操縦桿から手を離した。全身が、鉛のように重い。だが、それ以上に重いのは、今しがた聞かされた、断片だけの真実の方だった。
「……これから、どうなる」
呟いたライの言葉に、アリスの姿を取り戻したΩが、静かに答えた。
「わからない。ただ、天空は、もう黙って見過ごしてはくれない。それだけは、確か」
「それでも」
ライは、少女の――アリスの目を、まっすぐに見つめた。
「それでも、俺はお前を、あの荒野に置き去りにはしない。乗ることも、触れることも許されなかった俺に、初めて『乗れ』と言ってくれたのは、この機体とお前だ。今更、手放せるわけがないだろう」
アリスの瞳が、わずかに揺れた。星空のような色をしたその瞳の奥に、まだ完全には消えていない、少女らしい何かが確かに宿っているのを、ライは見た気がした。
「……ありがとう、ライ」
その声には、記憶を失ったばかりの少女の頼りなさと、もう一つの人格の静けさが、同時に滲んでいた。
荒野の空に、夕陽が沈みかけていた。橙色に染まった雲の切れ間から、これまで誰も意識したことのなかった、遥か上空の存在――天空の気配が、確かにそこにあるような気がした。
まだ何も終わっていない。むしろ、全てはここから始まるのだと、ライは理解していた。没落した家の末裔として、乗ることさえ許されなかった鋼鉄の騎士に、今、確かに乗っている。守ってきたはずの天空が、実は何から目を逸らしているのか、その答えにはまだ手が届かない。
それでも。
「行こう、アリス。まずは、追ってこられない場所まで」
ライは操縦桿を握り直し、機体を、夕陽の差す荒野の先へと歩ませた。
背後に残してきた、ゲルハルトの機体の姿を、ライは振り返らなかった。だが、いつかもう一度、彼と相対する日が来ることだけは、なぜか確信していた。味方としてか、敵としてか――それは、まだ誰にもわからない。
偽りの棺と呼ばれた機体が、本当に偽りだったのか、それとも新たな真実への道標だったのか――その答えは、まだ誰も知らない。
――第一話・了――
