【馬とシシの往復書簡】 第7話 「信仰、生業、暮らしのトライアングルを生きる」(富川岳)
<徳吉英一郎さんとの往復書簡シリーズです>
徳さん、だいぶ時間が空いてしまいました。
4月中旬に遠野駅前に古本屋「河童ブックス」をオープンしました。GWに入ってからは連日お客さんで賑わい、慌ただしく店の切り盛りをしています。今日は束の間の休日。午後からは荒川駒形神社の例大祭でシシ踊りを奉納します。毎年、徳さんが手綱を引いてクイーンズメドウの馬たちも神馬として練り歩いているので、午後からはリアルな徳さんと再会することでしょう。
最近、遠野市立博物館の前川さおりさんに以前教えてもらった遠野らしい風景の話をよく思い出します。「鳥居や石塔などの“信仰”、田畑などの“生業”、家々に垣間見える“暮らし”」の3要素が風景の中にあると、遠野らしい風景になるそうです。
確かにその視点で遠野を巡ってみると、そこかしこに神社の本殿に続く鳥居、氏神様、山神などと書かれた石塔を目にします。「生業」と「暮らし」の要素は遠野以外の場所でもよく目にしますが、「信仰」的な要素が高頻度で登場するのは実に遠野らしい風景だなと思います。
また、それは風景の話だけでなく、一年の巡り、時間軸の中でも高頻度で登場するのが遠野らしさだとも思います。今日午後から行われるような神社の例大祭は、春から夏にかけて遠野盆地の様々な集落で行われていますし、秋には収穫祭なども開かれています。また、魂を迎え送るお盆には「迎灯籠木(ムカイトロゲ)」や、「新精霊(ミソウロウ)」、「舟っこ流し」など、独自の風習が今も根付いています。そうした祈りに関連した時間・風景の中で生活しているのが遠野の人々なのだと思いますが、これほど「信仰」要素が浸透している場所も今の時代、少なくなっているのではないでしょうか。
僕は移住3年目の2018年の夏、はじめて遠野でしっかりとお盆の行事に触れたのですが、その時、すごく心が穏やかになるのを感じました。別に僕の先祖がいる土地でもないし、特定の故人を偲んでいたわけでもないのですが、現世に戻ってきた魂と共に数日間過ごす人々を目にした時に、なぜか自分自身も安心する気持ちがしたのです。その場にいる人々が死の悲しみをもとに連帯し、傷を癒やし、また一年暮らしていこうと前向きになる節目。そしてご先祖を通じて、自分がどこの土地に生まれ、誰と繋がっているかを確認する行為でもあるお盆は、自分が一人の個体ではなく、大きなものと繋がっているのだという安心感を得ることのできる時間なのだと思います。
また、河童ブックス開店日の朝にも神社の宮司さんに祈祷していただいたのですが、一連の儀式がとても良かったのです。不安と希望が入り混じる朝、神棚に向かって頭を下げ、祝詞を聴いているうちに心がだんだんと穏やかになっていきました。また宮司さんが頭を低く下げ神様に祈りを捧げる姿も、人智を超える存在を感じさせるものでもありました。
僕は信心深い方ではないかもしれませんが、こうした経験を経て「信仰、生業、暮らし」のトライアングルを保つ大切さを実感しています。前述したように生業(仕事)と暮らしは現代の生活に身近なものの、信仰を感じる時間や風景は多くありませんが、そんな時代の中で、目に見えざるものと共存する遠野が果たすことのできる役割はたくさんあるのだと思います。信仰の中枢である「山」が近いことも、遠野らしさなのでしょうね。
話は変わりますが、「コントロール」と「コネクション」の話、とても興味深く読みました。シシ踊りは、まさにその「コントロール」と「コネクション」が拮抗して表現されているような気がします。刀を持ってシシと対峙する「太刀振り」は荒ぶるシシをコントロールしなければいけないですし、シシに“なる”役割(僕もそうです)は、シシのように振る舞うことが求められているわけで、「コネクション」寄りのアプローチなのだと思います。
僕は「接続」という言葉を用いて表現しますが、シシを被ることで、シシ(鹿・獅子)のデータベースへ、そしてシシを被ってきた先人たちの記憶に接続しようと試みます。それはコネクションを築く行為と似ているのかもしれませんね。
そして、その獣の世界と感覚を深く同期させるために衣装があり、音があり、舞台が生み出されてきたのだと思いますが、そこに人の創造性を垣間見ることができ、ものを創るクリエイターとして非常に興味深いところです。完全に獣になりきるわけではなく、人としての創作が加わって芸能が成り立っているところに、時代を超えて今もなお僕たちが関わることのできる余白があるような気がします。
また、馬と対峙する徳さんは太刀振り側であるわけで、僕も太刀振り役をしてみたら、コントロールの感覚がもう少し理解できるかもしれないですね。または馬と対峙する経験を重ねるとか。
いずれにせよ、ビッグロックが本能に反しても生き抜こうとしたように、この地で生きてきた人々も、様々な感情・矛盾を抱えながら自然との「コントロール」と「コネクション」を追求してきたのでしょうね。大槌での山火事のニュースを連日見ながらそんなことを思っていました。
それでは午後からシシになります。
