ラヴェッソン『習慣論』における手段の概念に関する覚え書
文責:générosité
アリストテレスはデ・アニマ第一巻第二章において、先行する諸見解を分析しつつ、霊魂の本質的な作用として感覚するものであること、動かすものであることを挙げている。また、霊魂の定義としては、第二巻第一章において有機的(器官を持つ)物体の第一の現実態というものが挙げられる。第一現実態というのはある種の能力であり、結局のところ生とは身体が感覚し、自発的に運動[1]することを可能にするものと考えてよいだろう。アリストテレスの研究によってキャリアを開始したラヴェッソンも、また生をこのようにとらえていただろう。実際、『習慣論』の随所にアリストテレスの議論からの影響がうかがえる。『習慣論』は二部構成となっており、前半では自然の普遍的な物理的・化学的作用から生命ある個体へ、個体からさらに意識を持つ精神へという段階的上昇が語られ、後半では意識の内部において存在の階層を下降していくことにより、その各段階の連続性が示される。存在の各段階は、その力の受容と発動の間の距離によって測られる。最下層では作用と反作用は同時で等価であるが、受容と発動の間には時間的間隔があり、その上入力と出力は全く異なったものである。この能力、世界における普遍的法則とは異なるこの能力によって生体は優れて個体であり、世界に属し、影響を受けながら自らの固有の秩序、本質を有するのである。こうして、この断続と連続こそが問題となる。
ラヴェッソンの思想的背景としては、アリストテレスのほか、自国におけるコンディヤックから連なるイデオロジー、さらにその内から生じたメーヌ・ド・ビランらのフランススピリチュアリズムの伝統が第一に挙げられ、『習慣論』の主題となる習慣、努力といったテーマもそこから引き継いだものであるが、さらにドイツ観念論、とりわけカントとシェリングからの影響も挙げられるだろう。彼がカントにおける構想力の学説から得たものは、認識とはある種の運動である、あるいは奇妙なことに運動のみが認識される[2]というテーゼであろう。このような視座のもと、運動と認識は二つの対極的な働きとして理解されるのではなく、純粋な認識においても意志による目的の措定という要素を織り込むことで、結局生の働きは実践的な運動に集約される。運動という概念のもと、いとも簡単に構想力の運動から身体の運動へと話題が転換する彼の論述は、また同様に能力と実際の身体組織の同一視と捉えられるような並行論的な発想も見受けられるのだが、やや曖昧さを伴っているが、我々は運動一般の規定をそこから取り出したい。その際に、我々は『習慣論』の末尾の部分に大きく取り扱われる運動の目的と手段という概念による把握を常に参照する。
運動の形式的規定は、多の統一としての、多数の異質な要素の、時間の中で持続するものによる、時間の中での加算あるいは総合である。実際にはこれは構想力による綜合の文脈にある議論なのだが、それを踏まえて続けると、ある有限な対象を多様なものの綜合によって構成するならば、綜合がどこかで終結する必要があるだろう。ラヴェッソンはこの限界づけを意志によって措定された目的によるものとする。したがって、先ほどの運動の構造に目的という契機を含めなければならない[3]。以上の構造を目的と手段という実践的な枠組みによって解釈すると、ある行為は、主体が時間の中で多様な手段を通過することで目的に達する、というものとなるであろう。ここで注意すべきは、この要素、あるいは手段は個別的なものであって、ここでは運動は連続ではなく断続によって規定されているという点である。
以上の前提のもと、習慣の与える影響について、運動におけるそれに論点を絞ったうえで確認していく。運動の含む一連の諸要素はそれを通過する際に抵抗をもたらす。この抵抗の感覚、すなわち努力において主体は自らの力を意識する[4][5]。ところがこの運動が何度も反復されるにつれ、その遂行はスムーズになり、抵抗の感覚は減少し[6]、意識に上らなくなる。この習慣化された運動とは何であろうか。私はこれが意志的運動の手段化であると主張する。
アリストテレス『動物運動論』第七章を参照しよう。行為は推論的構造をもっており、その大前提は何が善であるか、すなわち何の実現を目指すべきかの規定、言い換えれば目的の措定であり、小前提は具体的個別的なその実現の可能性に関わる。例えば、渇きが飲み物を飲むべきであると訴え、ここに水があるという判断があると、それを飲むことが帰結する[7]。この際、人はここに水があるという判断において立ち止まり内省することなく、即座に動かされる。以上の内容から、アリストテレスにおいてもラヴェッソンと同様に、手段とは行為が問題なく遂行される場合目立たないものであるという主張が見いだされるのではないか[8]。こうして、目的と手段という行為の構造を意識的、無意識的という観点から分析する道が開かれる。ラヴェッソンは、習慣による行動でも、それが(おそらく外的な要因により)中断された場合、意識に再び上りうると指摘する[9]。習慣は意志から自然(本性、本能)への接近として理解され[10]、この自然と手段の関係に関する記述が習慣を手段化と解釈する際の参考になるだろう。自然とは本能的な、意識から隠れたものである[11]。運動における意志的なものとは、目的の設定という一つの行為の外面的な限界規定であり、その内実、あるいは「さしあたりはこの力に抵抗するところの、諸々の手段で満たされた中間帯[12]」は自然の領域である[13]。こうして、この一つの運動のなかで意志は目的に向かい、自然は手段を与えると述べられるが[14]、習慣が第二の自然である以上、習慣は手段を提供するのである。したがって、習慣によって変容した運動は、また他の運動の前提要素としての手段として機能すると考えられるだろう。以上によって多様なものの綜合としての運動が他の運動の手段、すなわち多様なものの一要素となるということは、手段がそのうちに諸々の手段を含み、その下位の手段がさらに、というような運動の階層的な分節の可能性が開かれ、この要素をさらにその要素に分割し、という操作をくりかえすことによって、断続的な運動は連続的な運動に接近していくだろう。
この習慣とは、具体的にどのようにして発生するのだろうか。ラヴェッソンはこれを未だ存在しないものである目的の、存在との接近、合一、実体的観念[15]の生成として説明する[16]。接近や合一といった語は曖昧であるが、認識と行為の類比関係にしたがって、前者におけるその対応物を彼の論述のうちに見出すとすれば、習慣による観念の連合[17]の説明が挙げられるだろう。観念の連合は、ある一連の表象の綜合を繰り返すにつれ、表象は不判明になり、綜合の働きは容易くなる。この結果が観念の連合である[18]。行為における手段と目的についても同じことが言えるだろう。目的の指導の下、外面的につなぎ合わされた諸手段が、互いの限界を超えて浸透しあい、次第にそれ自体で[19]連合し始める。その結果、運動の開始点から終着点である目的までは一つの連続した流れとなり、運動の開始点が与えられればそれは目的まで、抵抗もなく、意識に上らず移行するようになるだろう。こうして、目的は存在の中に根を持つものとなり、傾性となる。これによって、生における、一定の時間のうちでの作用から異質的な反作用への転換も理解されるのではないか。「目的の観念がこれまで傾性の発動を促したが、その目的は、今や傾性に接近し、これに触れ、合一する[20]」。傾性とは習慣によって形成される無意識的な運動の傾向性だが、目的の発動するのは手段としてのそれであり、これらの諸傾性が外在的な関係しか持たなかった目的と連合したとき、それらは一つの新たな傾性として成立するだろう。習慣によって、運動が意識の中枢性から、諸傾向の多数性と諸器官の多様性の中へ分散していく[21]というのも、このような連合によって意識によって外から与えられた秩序が次第にそれ自体独立していく事態を表現したものであろう。
「人は、無際限に分割可能な中間を決して汲み尽くし得ず、決してその全体を再構成し得ない[22]」のであり、無前提に運動が開始されるとすれば、運動は無限に多くの部分を通過しなければならず、目的に到達することが不可能となるだろう[23]。しかしすでに一つの連続した形成となった一つの運動はその連続性によって既に通過可能となっているので、人はそれらを用い、綜合することでしか運動を実現できない。ところで、一切の運動、すなわち習慣の形成に先立つ最初の運動においても、その手段としてこのような傾性が与えられていなければならないはずであり、これが自然(本性)である。生はすでに与えられた傾性から運動を構成し、その運動がまた別の運動のための傾性となることで、人間の能力は拡大していく[24]。一方、すでに存在する傾性もまた構成されたものであると見なすことで、能力はより低次の諸力からの合成として理解される。このような下降によって原始的な低次の力からより高次の力までの生の上昇の連続性が示唆されるだろう。
ところで、非意志的な運動の可能性、傾性として既にある能力が、用意された使用可能な手段として生の運動を可能にすることがあきらかになったが、この分化は負の側面も持ち合わせる。傾性がそれ自体として連合していくにつれて、無意識の癖のように、それが意志の統御を完全に脱してしまう場合がある[25]。あるいは手が特定の激しい動作に慣れ、もはや繊細な運動が不可能となる場合など[26]。ラヴェッソンは病気を、習慣もまたそれによって説明されるところの、実体的観念により説明する[27]。病気とは、ある生命の中に寄生する生命である[28]。すなわち、ある生命の部分であったものが、自律化が進み切りもはやその生の手段として使用不可能、あるいはその自律的な働きが上位の生に対して害をなす状態と言えるだろう。しかしこうした能力の分化は生にとって必要な条件でもあり、その可能性を排除するということはできない[29]。要するに、能力の連合による実在化、分散は、運動するものである限りの一つの生を可能にするが、同時にそれらが病的なものとしてまさに同じ生を蝕む可能性の根拠でもある。
最後に、以上の考察をもとにラヴェッソンにおける個体の存在について確認することで本稿の締めくくりとしたい。アリストテレスとともに、ラヴェッソンにおいても、個体こそが実体であり、優れて存在するものとは生命である[30]と主張される。しかしここで問題となるのが個体の一性を保証するものはなにか、という点である。無限に任意に分割されうるような物体において、ここからここまでが一つの個体である、ということは何をもって確定されるのであろうか。ライプニッツであれば個体の一性の源泉としてモナドという形而上学的原理を要求したところであるが、ラヴェッソンはあくまでそのような外的な原理あるいは実体と現象の区別といったものを持ち出さず、世界の内部でこの問いに答えようとする。冒頭に述べたように、個体はあくまで世界に内属し、世界の法則に従い、世界から影響を受けているのである。
世界とは第一には物理的、化学的な世界として、分散した普遍的な諸力であり、どこをとっても等質的であり、無限に分割されうる。この等質性は部分と全体とでその在り方が変わらないという性質を持つ(ラヴェッソンにとって原子は存在しない)[31]。ところがここに原始的な傾性が現れることで、世界に異質性が生じるだろう。ただしあくまでその傾性も等質な諸力へと分解されるものである。そしてこれがいくら微小な偏りだとしても、こうして生じた異質なものが綜合されて生じたものはより普遍性から隔たったものとなるだろう。この綜合は等質的な綜合とは異なり、全体と部分とは異質なものである。あたかも、人体が原子から構成されるとしても、分子、細胞、組織、器官といった相異なった階層においてそれぞれ相異なったものが上位の階層のものの単位を構成するように。この異質的綜合によって、生命は世界に属し、世界と交流しつつ、世界と異なった自らの個体性を同時に持つことが可能となるが、この綜合が分散しつつ統一する総合であるかぎり、この統一は絶対的なものとはなり得ない。個体の存在の原理が超越的でないがゆえに、ラヴェッソンにおいて個体は、モナドの持つ不壊の身体の代わりに、健全な状態と病的な状態の可能性が表裏一体のものとして属する身体を持つのである。
[1] アリストテレスにおいては、成長もまた、増大としての運動である。
[2] p37「判明な意識の中にあるものはすべて、運動といふ一般的条件の下にあり……」判明な意識、あるいは認識とはカントのように単なる直観ではなく対象の認識であることには注意が必要だろう。(以下、注の書名なしのページ番号は岩波文庫ラヴェッソン『習慣論』のもの。)
[3] p26-29
[4] p30
[5] 意識がそれに対する外部のものの抵抗においてよって生じる限り、意識とは界面的なものと言えるかもしれない。
[6] p38
[7] この行動の構造は、単一の三段論法としてのみならず、さらに細分化されうるだろう。
[8] ラヴェッソンと同様にアリストテレス解釈を重要な哲学的源泉としていた哲学者として、ハイデガーもまたこの箇所に示唆を受けているのではないだろうか。
[9] p47
[10] p50
[11] p49
[12] p50
[13] p72,73
[14] p72
[15] アリストテレスにおける実体に内在する形相に対応する概念だろう。
[16] p45,46
[17] 『習慣論』のエピグラフ「習慣は恰も自然の如し」の出典はアリストテレス自然学小論集『記憶と想起について』であるが、この小論では習慣による記憶のある種の連合についても論じられている。
[18] p68,69
[19] 厳密ではないがカント的な言い回しをすれば、主観的にではなく客観的に。
[20] p46
[21] p54,55
[22] p72
[23] 無限分割については、アリストテレス『自然学』、『生成消滅論』等が参照できるだろう。
[24] 生は諸能力の束として考えられるかもしれない。
[25] p40,41
[26] p51
[27] 岩波文庫 シェリング『人間的自由の本質』p73,74「疾病は自由の濫用によって自然のうちに生じた不秩序として、悪或いは罪の真の対像である。普遍疾病なるものは、根底の隠れたる諸力が開かれてくるということがなければ決してあり得ない。〔中略〕これに反して根源的な治療はすべて中心に対する周辺の関係を旧に復することに存し、また疾病より健康への推移は、本来ただ前と反対のことによってのみ、すなわち分裂せられた個別的な生を、再び本質の内的閃光のうちへ回収することによってのみ起こり得る。その再回収から分開が再び結果するのである。」ラヴェッソンはシェリング哲学を受容していたため、根拠のない比較とも言えないだろう。
[28] p57
[29] この病的なものの概念は実際には現代的な医学において意義をもつとは考えられないが、せいぜい精神における病的なものの根拠、あるいは精神の器官学の可能性に関しては示唆されるものがあるかもしれない。
[30] p13「唯生物のみが他の物と分かたれた自然物である、恰もそれのみが存在者であるやうに。」
[31] p11,12
