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【劇評】広田ゆうみ+二口大学『眠っちゃいけない子守歌』(2025.10.18 犀の角)

長野県上田市にある劇場兼ゲストハウス「犀の角」で広田ゆうみ+二口大学『眠っちゃいけない子守歌』を鑑賞した。広田さんと二口さんは、毎秋犀の角で別役実作品を上演している。ということは把握しつつも、映画館も秋は何かと忙しく、彼らの公演を見逃し続けていた。

というわけで、初めての広田+二口×別役実。結論から言うと「とてもおもしろかったし、良いものを観た。充実の60分」という感じ。アフタートークを聴きながら、あれやこれや考えることがあったので、書き留めておこうと思う。形になっているかはさておき、これもまた劇評としておく。

『眠っちゃいけない子守歌』のビジュアル
『眠っちゃいけない子守歌』

—私は話がしたいだけだよ……。私がここに坐って、お前さんがそこに坐って、お前さんが何か言って、私が何か言って、それで、おかしかったら笑うとかさ……。

いろいろなことを忘れてしまった。
忘れてしまったことも忘れてしまった。
何ひとつない男の部屋に、「話し相手」の女が訪れる。

『眠っちゃいけない子守歌』(犀の角より)

男と女の噛み合わないやり取りに、あるいは男の言葉に、笑いがたびたび起こった。でも、私は笑えなかった。笑うことができなかった。

「話がしたい」と言う男は、女の言葉を一つ一つ確かめるような、奇妙な質問をする。その度に女は困惑し、苛立ち、感情が揺さぶられる。でも、男のその姿は、まるで世界に手を伸ばすような、あるいは世界の輪郭を確かめるような、そんな手触りを感じさせるものだった。

私は、その感覚に覚えがある。この世界を知りたい。そして、わたしを知りたい。世界と対峙することで、私はわたしを知る。男のその世界に手を伸ばそうとする言葉の数々から、彼の“世界/わたし”を知りたいという気持ちが痛いほど伝わった。だから、笑うことができなかった。

ここでいう”世界”とは、”他者”である。

私たちは、他者という世界を通してわたし/自分を知る。男は、女という世界に触れることで自分を知ろうとした。女は男という世界に触れることで、自分が揺さぶられた。

物語の中盤、「わたしはわたしの意思で行動している」と女の痛切な声が響いた。夫がいたという彼女。ミルク紅茶に砂糖を二つ入れる。「どうして二つなのか?」という男の問いに夫を重ねる。「多いのか」「少ないのか」いずれを問うても彼女の夫は「いいや」と答えた。夫も男もきっとただ二つである理由が知りたかったのだと思う。”彼女”が砂糖を二つにした理由を知りたかっただけ。でも、女は”夫/男”にとっての砂糖の適量を知りたかった。噛み合わない会話と視点。

序盤から中盤まで、女はわたし/自分を保っていた、保とうとして世界に抗っていた。女から見れば、男は混沌とした世界/他者だった。しかし、終盤、男はわたし/自分を見つけた。対して女は、わたしから世界になった。きっと彼女は、これから夫にとっての世界/他者になるのだろう。

“世界”だった男は 、”わたし”になった。
“わたし”だった女は、”世界”になった。

わたしは世界で、世界はわたしだ。

世界という名の他者がいてこそ、わたしはある。他者との関わりの中で私達は生きている。生かされてる。他者から見ればわたしもまた世界である。

たとえ言葉と視点が噛み合わなくても、私達は話をするという触れ合いを通して、自分を知る。チェコスロバキア人とエチオピア人の会話のように、わからなくても、わからないということがわかるのだ。

アフタートークで、あるいは新聞記事や昨日の回を観た人の感想で「孤独」というキーワードが用いられていた。私にはこの作品における孤独がわからなかった。それはきっと私自身が孤独ではないからなのかもしれないし、あるいは、孤独を孤独と認識できないのかもしれない。他者とわかり合えないのは当たり前のことで、そこから発生する感情に「孤独」と名付けてないだけなのかも。余談。

男の言葉に感情を揺さぶられながらも、コップの水が溢れるようで、溢れない、繊細な広田ゆうみの演技力に脱帽。二口大学が演じた男は、ともすれば何かしらの障害をもった人、あるいは認知症とラベリングされそうな難しい役だと思うが、ラベリングさせず、ただひとりの、彼なりの人生を歩んできたと思わせる男だった。

最後に、本作は照明が素晴らしいと思った。テーブルに並べられた家々に灯っていた小さな明かり。小さいけれど、あたたかくて切ない光だった。

『眠っちゃいけない子守歌』の看板

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