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スタニスラフは泣いていた。
もう夜も更けて、今夜もまた霧が立ち込めて来ているのに。歩道に立って、そのまま泣いていた。
オルガが背中に未練を纏い、止まりそうにも見える歩みをしかし最後まで止めずに、密かに小さく震えながらも淀みなく曲がり角へ消え…
それからもう随分と時は経っていた。
スタニスラフに聞こえる音は、彼自身の嗚咽と護岸に打ちつける波の音だけ。

「…はぁ…。」
息を長く吐いてスタニスラフは顔を上げた。黄色い街灯の光が、青白いはずの彼の頬を黄色く光らせた。強張った首が痛い。
墨色のコートはいつの間にか湿っている。遠くの波音を聴きながら、こんなにも伽藍とした世界に自分しか居ないのかと、寂しくもあっけらかんとした気持ちで彼は思う。

背後の丘で梟が鳴いた。凪いだ空気に真っ直ぐな穴を開けて。ホウ、とひとつ通して見せた。
さっきまで自分の鼻先だけに縮こまって、躓きながら呼吸していた彼の嗚咽が、どれほどちっぽけなものだったかを梟の声は見せつける。
鼻先から降ろした両手が湿って冷え冷えする。スタニスラフは墨色のコートのポケットにゆっくりと手を差し入れ、その指先は煙草のパウチを見つけた。
(マッチはまだあったかな)
ポケットの奥を探ると、マッチ箱はコソッと音を立てた。
煙草を巻くのにいい平らはないかと、スタニスラフは辺りを見回す。街灯の黄色い光の下からでは、それが照す限りの石畳しか見えないのに。

丘の暗闇でまた梟が鳴く。
時間は動き続けているのだと、彼に知らしめるために。
ついさっきまでこの場で長く泣いていたのだと、スタニスラフは思い返す。湿って腫れた目の感覚、咽喉に残る緊張の余韻。それでもどこか、別の世界のことのようにも感じる。
(私はいま煙草を巻いて一服しようとしているんだ)
それに梟の声をもっと聞きたくもなっている。墨色のコートが頼りなくも堅実に、湿って冷たい夜気を遮っていることにスタニスラフは気づいて、少し安心する。ポケットに入れた両手はもう冷たくない。
一瞬、オルガの唇が脳裡を過る。
(煙草を、吸おう)
それしかないという気分で、墨色のポケットの中、煙草のパウチを軽く握りしめる。
当てもないまま、スタニスラフは護岸の方へ踏み出した。数歩行って、彼は気づく。街灯の、黄色い光が弱まっていくのを。その減衰が少しの不安を醸す。スタニスラフは迷った。この黄色い光の円錐から出ていくべきかと。

梟は二度、続けて鳴いた。
オルガはもう戻って来ない。泣き暮れた自分もまた。寧ろ、自分が泣いていた光の円錐を外から眺めてみようじゃないかと彼は思いついた。そうして暗闇に煙草の種火を浮かべたら、どんな気持ちがするだろう。
歩みを進めてスタニスラフは自分の靴音を聞いた。響きが凪いだ霧に染み入るようで心地良かった。護岸に砕ける波音は、泣いていた時より近くに感じる。円錐の外は思っていたより広々して落ち着く。
暗がりの中にベンチが見える。オルガの穏やかな笑顔が過る。左を振り返ればその微笑みを見られるような気がする。それでも、いまはひとり、湿ったベンチに無造作に腰掛けるのだ。墨色のコートを頼りに。
強がった自分を後にして、スタニスラフは音を立てずに腰掛けた。そうするべきと思う仕方で腰掛けた。
一息、二息、動かないまま彼は座っている。街灯の黄色い光の円錐を眺めているのだ。
(あの下で私は泣いていたのだ)
その円錐は等間隔に並ぶいくつもの同じ円錐のひとつだった。
スタニスラフは煙草のパウチを取り出して膝の上に広げる。煙草を細く丁寧に巻いた。
(問題はマッチさ)
背筋を起こしてポケットの小さなマッチ箱を取り出し、軽く振る。そろりと開けると二本、いや三本のマッチ棒が見えた。
(一本も無駄にするものか)
軸をしっかりと箱に当て、呼吸を止めて、素速く擦った。一瞬の祈りの間を空けて軸先に火が噴き上がる。掌で大事に囲い、咥えた煙草を差し入れる。スタニスラフは両手を離すと、鼻先でぼうっと赤い種火を光らせた。少し得意気に吹かしたその種火が、青白いはずの彼の頬を仄赤に照らした。
吐いた煙は霧に溶け、その向こう側に並ぶ個性のない黄色い光の円錐たちを、スタニスラフはまた眺めた。まだ、その下で自分が泣いたものを見分けられるが、けれどそこにはもう、自分との繋がりの手応えはなかった。

黄色い円錐の列の向こう、暗闇の高いところから梟が鳴く。
ホウ、ホウ、ホウ…。
三度鳴いた。梟は、世界は広く、続いていると告げている。
スタニスラフは胸を広げ空に向かって煙を吐いた。強張った首が痛んだが、痛むと同時に伸びていくのだった。








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