きっと誰にも褒められなくてよい——飾らないわたしの暮らしと詩の言葉
「詩ってなんだか難しそう」と思われがちな今だからこそ、届けたい。
「詩人は、どんな瞬間に詩を読み、書いているのか」
詩のある日々を描き出し、日常に詩の言葉をやわらかく解き放つ。
そんな連載を想定して綴った、言葉と暮らしのエッセイです。 (文月悠光)
アラサーの嗜みとして岩盤浴にハマりつつある。熱した石の上にタオルを敷いて横たわれば、たちまち汗が吹き出す。普段は雑念で散らかった私の頭が静けさに包まれる。文庫の短編傑作選を開き、汗と蒸気でシワシワにしながら読みふけるのも一興だ。背中を温めたあとは、お腹を温めるためうつぶせに。最終的には読書すら放棄して、ただただ汗を流す物体と化すのだ。肉体に程よい鞭を打ってる感がたまらない。
使用される石には様々な効能があるらしく、解説を読むだけで楽しい。マイナスイオン効果だとか、解毒作用だとか、中には本当か?と疑いたくなるようなものも。しかし効能なんて正直二の次だ。石は石そのものが綺麗なのだから。
マーブル模様が美しい五色瑪瑙、品格漂うブラックトルマリン、新緑の色を体現したような鳳緑石、爽やかなイエローオニキス。岩盤浴とはすなわち、この素晴らしい石たちと肌を合わせることなのだ。岩盤浴然り、パワーストーン然り、「石に守ってもらいたい」願望は、案外普遍的に受け入れられているように思う。
先日、作家の知人に「石が好き」と漏らしたら、「スピってますね!」と瞬時に返されて、ああそういうふうに受け取られてしまうのかと感じた。実際、私も20代の頃は石好きの友人に対してそう感じていたことがあったので、悪気はないよね、と思う。人間と石の距離がそうさせるのだ。しかし「犬が好き」というのも、結構同じくらい人間から遠い気がするんだけど……。石が好きなのはやはり変わり者なのだろうか。
書店で手に取り、魅了された「石の人」さんの本。
石は詩に似ている。石は「存在」そのもので語る。人間は複雑すぎる。だから、もっと石に近づいてみたい。
石のように黙っていたい気持ち、石のように輝いていたい気持ち、石のように強くありたい気持ち……。いっそ肉体という脆弱な器を捨てて、石になってしまいたい。もうたくさんだ、人間なんて。過去なんて。
二〇一四年に出会った杉本真維子さんの詩「拍手」は、そんな私の欲望にストレートに応えてくれる作品だ。
拍手
杉本 真維子
背骨の、したのほうに、小さな、拍手がある
装置でも、偶然の、産物でもなくて
ある朝方、それをみつけて
スイッチを押したようだが、記憶はなかった、
博士の指示にしたがい
朝と夜だけ、多くても一日二回まで
という決まりだけは守った
すると目は空をうつしきれず
大空が目をうつし
ひろびろとした視野、というものが、
「むかし」への取材を放棄する
「いいことばかりじゃなかったです、とてもとても
あなた、かってなことばかり言って
過去、なんて、その程度のものなのですよ」
わたしではない口が
不満気に、でも、きっぱりと、言い放った
まばらな拍手はぐねぐねと体内をめぐり
私語をやめ
硬い岩となって野原でめざめる
あなたのつごう、あなたのはんだん、
あなたの、滲む血のかたちは、
ぜんぶ、その身体に、とじこめてあると
博士は言った
きっと誰にも褒められなくてよい
そのちいさく何よりも華やかな拍手のために、
ひとはふっくらと一人である
杉本さんの作品に好きな詩がたくさんある中で、なぜこの詩がずっと自分の中に残っているのだろう。一つ確実に言えるのは、謎にあふれていることだ。読者である私には、突然に出てくる「博士」もわからないし、「拍手」が何であるかも、「わたしではない口」もわからない。毎年、大学の授業で学生たちにこの詩を読ませているが、まずそこでつまずく学生が多い印象だ。
けれど、この詩にはたくさんの声と身体が反響していて、何度読み返しても飽きることがない。いくつもの映像が浮かんでくる。シーンが急に切り替わる鮮烈さと、表現のスケールの大きさは、多くの人が考える「詩」を超えているのではないだろうか。詩といえば、抽象的な自分語りで、作者が日常で感じたことを吐露するものだと思っている人には、ぜひこの詩を手渡したい。
私が初めてこの詩を読んだとき、終わりの三行にまず胸を打たれた。「拍手」といえば、通常は誰かの功績を労うために送るものだが、この詩の「拍手」は違う。
〈きっと誰にも褒められなくてよい〉。
他ならぬ自分自身のために手を叩く機能が、あらかじめ私たちの身体には内包されているというのだ。そのことに私は心底励まされた。誰かの評価に依存する必要はない。身体がとじこめているもの自体の豊かさに気づかせてくれる言葉だったからだ。
終わりの〈ひとはふっくらと一人である〉という一節からは、不思議な豊かさを感じる。そもそも「ふっくら」は、「ふっくらとしたパン」など触って感触を確かめられるような対象に使われる表現だろう。〈ふっくらと一人である〉は、それぞれが日常的な言葉でありながら、圧倒的に新鮮で、作品全体を支えながらしっかりと締めくくっている。
この詩の中の〈拍手〉とは何だろう。拍を刻むのだから心臓の鼓動か、あるいは両手を広げたような形をした肋骨のことか、あるいはもっと内面的なことか。いずれにせよ、人は自分に対して手を叩き、言祝ぐことができる、という発見が詠われている。
語り手の身体性の変化も見逃せない。冒頭の語り口は実に機械的に感じる。〈博士の指示にしたがい、〉〈決まりだけは守った〉と、意志を感じさせない語り手である。二連目以降は、〈「むかし」への取材を放棄する〉〈過去、なんて、その程度のものなのですよ〉とあるように、語り手は一切の過去を投げ出そうと試みる。すると、語り手の身体にある異変が生じるのだ。まるで生まれ変わりの儀式のように。
まばらな拍手はぐねぐねと体内をめぐり
私語をやめ
硬い岩となって野原でめざめる
ぐねぐね、という耳慣れない音に注目したい。冒頭で機械のように描かれた語り手の身体は、〈ぐねぐね〉と肉感的な響きを与えられたのち、岩となって目覚めるのだ。瞬く間に変身を遂げてみせる、この手つきがなんとも鮮やかだ。
同時に、こんなことも思う。この身体が獲得してきたものを、もっと信じてみてもよいのではないかと、一つの希望のように感じる。〈あなたのつごう、あなたのはんだん、/あなたの、滲む血のかたちは〉〈ぜんぶ、その身体に、とじこめてあると/博士は言った〉という部分を何度も辿る。自分は頭でっかちな大人になってしまったけれど、この部分を読むと、幼い頃に持っていたような身体への信頼感を取り戻せるような気がするのだ。
*
二〇二三年のアカデミー賞は、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(通称エブエブ)が話題を席巻した。中国系アメリカ人の女性がマルチバースに飲み込まれるSFコメディだが、本作の主題は母と娘の確執であり、最終決戦は娘との親子バトルとなる。
主人公が飛ばされるマルチバースの一つは、自分が映画スターになっている宇宙で、明らかに主演のミシェル・ヨー自身の物語である。作品ごとに異なるキャラクターを演じ分ける「俳優」という仕事も、マルチバースを行き来する旅人のようだと思う。
中国系で母娘ものといえば、ピクサーの『私ときどきレッサーパンダ』を想起するが、母と娘の確執を母側からコミカルに描く本作はより力強い。主人公が飛ばされる宇宙はどれも混沌としている。その上、全宇宙にカオスをもたらそうとしている悪役(ラスボス)の正体は、なんと自分の娘というのだから滅茶苦茶だ。
「母親にとって、今まで信じてきた世界を壊されるのは、娘がマルチバースの悪役に見えるくらい怖いのね!」と私はどこか痛快に感じた。
本作を観たとき、私は「自分の親にも観てほしい」と感じた。札幌の郊外で暮らす両親は、カルチャーへの関心が限りなく薄い。それゆえ何かの作品に触れた後にそう思ったのは本作が初めてで自分でも驚いた。実際のところ、やかましいほどに情報量の多い本作を、七〇代の両親に勧める勇気はなかったのだが。
どの宇宙でも、主人公とその娘は一緒で対立し合っている。挙句、生物が全く生まれなかったマルチバースに行き着くが、なんとそこでも二人は崖の上に並ぶ二つの「石」なのだった。石になった母娘は、身じろぎもせずに語り合う。ただの石になってようやく心が通い始めるのだ。
この場面を映画館で観たとき、まっさきに私の頭をよぎったのが、杉本真維子さんの詩「拍手」だった。
「いいことばかりじゃなかったです、とてもとても
あなた、かってなことばかり言って
過去、なんて、その程度のものなのですよ」
過去を断ち切ることができない不器用な人間たちよ。「いいことばかりじゃなかった」と嘆き、取り返しのつかない過去を悔やんでしまう日が否応なくやってくるだろう。そんなときは、人ではないものに触れて癒しを得よう。
衰えゆく身体を脱ぎ捨てる方法などない。ならばせめて、石に触れ、詩の言葉に触れ、他ならぬ自分の熱を確かめたい。
ときに汗を流し、何度も「言葉」につまずきながら。「私たち」という宇宙の複雑さを、この身に刻みたい。
違う宇宙に目覚めても、硬い岩となって目覚めても、最後は必ず一人の私に戻ってくる。
〈ひとはふっくらと一人〉なのだから。
●著者プロフィール
文月悠光(ふづき・ゆみ)
詩人。1991年北海道生まれ。10歳から詩を書きはじめ、16歳で現代詩手帖賞を受賞。第1詩集『適切な世界の適切ならざる私』(ちくま文庫)で中原中也賞、丸山豊記念現代詩賞を最年少18歳で受賞。詩集に『わたしたちの猫』(ナナロク社)、『パラレルワールドのようなもの』(思潮社、富田砕花賞)『大人をお休みする日』(角川春樹事務所)など。
エッセイ集に『臆病な詩人、街へ出る。』(新潮文庫)、『洗礼ダイアリー』(ポプラ社/河出文庫版が今年9月に刊行予定)がある。
*このエッセイはnote初出の書き下ろしです。
【お知らせ】
エッセイ「『舐められない私』のつくり方」(note創作大賞2025)も公開中。
こちらの記事もぜひご覧頂けたら嬉しいです。▼
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