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キッチンからの手紙 #3 毛糸と三宅先生

前略

朝晩の冷え込みが少しずつ強くなって来ましたね。
暖房器具を使うのにはまだ少し早い気がしますが、私は冷え性で今の季節でも足先が氷のように冷たくなってしまいます。ですので今日は湯たんぽを引っ張り出してきました。ゴム製のグレーの湯たんぽです。

お鍋で70℃程に温めたお湯を注ぐと(やかんを2ヶ月ほど前に断捨離してしまったので、今はお湯を沸かすのにお鍋を使っています) ジョボジョボジョボ と、こもった低い音がします。お湯がカサを増すにつれてその音は少しずつ軽やかになっていきます。その音の変化を聞いていると湯たんぽと話をしているようで温かい気持ちになります。お湯が3分の2ほど入ったら空気を抜いて蓋をギュッとしめます。

そう言えばお湯とキッチンで思い出す出来事があります。
それは私が4歳か5歳の頃の話です。

祖母は外出が嫌いな人で1日中家の中で過ごしていました。茶色のフレームの度の強い老眼鏡をかけて、居間のペタンコの座布団の上にちょこんと正座をして、いつも編み物をしていました。

外に出かけない人だったので毛糸を買いに出かけることも有りません(たまに母が買って来ていましたが)。家にある着なくなったセーターやチョッキを解いて使っていました。

今までセーターの形をしていたものが少し引っ張るだけでたった1本の毛糸になるのです。それが楽しくて、私はよく解くのを手伝っていました。渡されたセーターの毛糸の端を両手でジャァージャァーと引っ張ると、おばあちゃんがそれをクルクルと巻いてまあるい玉にしていきます。おばあちゃんは糸を巻くのが早くて上手だったので、私が解くのが間に合わない時もありました。
全て解き終わると大きな毛糸玉がいくつかできるのです。

できた毛糸玉はちぢれ麺のように変な癖がついています。そのままでは編みにくいのでまっすぐになるように蒸気で温めます。その作業はお湯を使うのでいつも台所で母と祖母が2人がかりでやっていました。

実家は昔の作りの日本家屋で今のようなリビングダイニングなどではなく、台所は台所(今で言うキッチンとダイニング)、居間は居間と独立した作りになっていました。
いつもはお醤油や塩やらの調味料入れが置かれてたままになっているダイニングテーブルの上を綺麗に片付け、そこに1口のガスコンロを置きます。今のようなカセットコンロではありません。台所の壁にガスのコンセントがついていて、コンロにガスホースを取り付けると、もう一方のソケットのついたホースの端をカチッとそのコンセントに繋ぐのです。
そのコンロの上に毛糸用のお鍋を置きます。その鍋には穴が空いていて、中が二重になっています。鍋の中の筒に毛糸を巻きつけ、毛糸を通した方の穴とは反対にあるもう一方の穴から毛糸の端を外へ出します。外側の鍋と内側の筒の間に水を入れ、コンロに火をつけます。

お湯が沸くとその水蒸気で毛糸の縮れが伸び、不思議なことに真っ直ぐになるのです。祖母がゆっくりゆっくりと糸を手繰り寄せていきます。手繰り寄せた糸は母が両手を脇の幅くらいに広げ、そこにふんわりとかけていたように思います。
いつもは見ているだけのその作業を、私はどうしてもやってみたくなり母に頼んで糸を引かせてもらいました。おばあちゃんがやっているように、最初はゆっくりと。しかし私のワクワクは止まらず、糸を手繰り寄せる速度は次第に早くなっていきました。
祖母が「そろそろやめとき」と言いました。母も「もう終わりにしなさい」と言いました。私はどうしても後少しやりたくて「あと1回だけ」と言いました。
そして最後のひと引きをした時です。糸に引っかかった鍋がひっくり返り、グツグツと沸騰していたお湯が私の右足にかかりました。私はびっくりして声も出ませんでした。
母はシンクの洗い桶に溜めていた水を私の右足にかけるとゴミ袋で濡れた足を包み、祖母に「三宅さんに言ってくる!」と言って私をおぶって全速力で走り出しました。
三宅さんとは三宅医院のことです。私は体が弱く三宅さんの常連でした。三宅先生はいつも院長らしい背もたれの高いフカフカそうな大きな黒い椅子に座っていました。頭は耳の上あたりに少し髪の毛が残っていましたがそのほかの部分はツルツルで、診察室の電気にあたっていつもピカピカに光っていました。医院はいつも満員で待合室は座るところもないくらいでしたが、先生はどんな時でもニコニコとしていました。

三宅さんに向かう途中、私は母の背中でひとつ気になっていることがありました。それは母が足にかけてくれた水のことです。シンクの洗い桶に溜めている水は綺麗ではありませんでした。洗い物をした残り水なのでいつも少し汚れていました。あんな汚い水をかけられて嫌だなと、内心 思っていたのです。

三宅先生は私のことを先に診てくれました。母があの水をかけてくれたことと、ゴミ袋を被せて空気に触れないようにしたことが良かったと褒めていました。そのお陰で熱湯を被ったわりには重症化せず 通院で治せることになりました。
三宅先生の自宅は医院の隣にありました。しばらくの間 ガーゼ交換は毎日必要だから休みの日も来なさいと言ってくださり、母と私は休診日も日曜日も毎日三宅さんに通いました。私の足は包帯でぐるぐる巻きでしばらくお風呂にも入れませんでした。あまり歩くこともできず、足を曲げることもできず ずっと右足を伸ばして座って過ごしていました。
でも不思議と辛かった記憶はありません。私は三宅先生が大好きだったので、通うのが楽しみだったのかもしれません。それに包帯が巻かれていることが嬉しかったような気がします。

中学生くらいまでは茶色い痣のように火傷の跡が残っていましたが、私もだんだんと成長して背が伸び体重が増え皮膚も伸びました。今ではもう明るいところで目を凝らして見ないと分かりません。あなたも、私にそんな過去があったなんて知らなかったでしょう。

三宅先生はその後 癌で亡くなってしまいました。毎日沢山の患者さんのために時間を使い、自分の病気の発見が遅れたのです。医者の不養生とはこのことだと母は言っていました。
私の火傷の後は分からないくらいに薄くなりましたが、三宅先生が穏やかな笑顔であの診察室の大きな椅子に座っている姿は今もはっきりと目の前に浮かびます。

いつもお世話になっていた三宅先生。
三宅医院のような、地域の人が安心して通える町の病院っていいな。そう思って私は今の職業についたのです。

湯たんぽのおかげで足先は随分と温まって来ました。

かしこ


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