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ビタースイート・サンバが流れる夜に

深夜ラジオに魅入られた少年時代

北海道の夜、東京から届く電波は、いつも雑音に埋もれていました。

それでも私は、布団の中でラジオの向きを少しずつ変えながら、まだ見たことのない大人の世界に耳を澄ませていました。

私は、かなりませた子供でした。

小学校の高学年くらいから、深夜放送を聴き始めていました。今なら、スマートフォンで動画も見られるし、配信もある。SNSを開けば、知らない誰かの日常にも、遠い国の出来事にも、数秒で触れられます。

けれど当時、真夜中にこっそりラジオを聴くという行為には、今とは違う高揚感がありました。

家族が寝静まったあと、自分だけが起きている。近所の家々の明かりも消え、世界が眠ってしまったような時間に、イヤホンから流れてくる声だけが外の世界につながっている。

それは、誰にも知られず、特別な場所へ忍び込むような感覚でした。

家が商売をしていて、本や雑誌も扱っていたので、私は店に並ぶマンガを片端から読んでいました。コロコロコミックから始まり、ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン、ヤングジャンプ、ヤングマガジン、スピリッツへ。麻雀やギャンブルを主題にした、いかにも大人向けの雑誌以外は、ずいぶん背伸びをしながら読んでいたと思います。

マンガとラジオは、子供の私にとって、大人の世界を覗き見る二つの窓でした。

北海道の夜に、なんとか届いたニッポン放送

北海道でも、深夜になるとニッポン放送の電波をかろうじて拾うことができました。

一部の番組はSTVラジオでも放送されていましたが、北海道では流れない番組を、東京から届く弱い電波で聴くことに意味がありました。

音質はひどいものでした。ザアザアという雑音が入り、声が波にさらわれるように遠ざかる。ラジオの向きをほんの少し変えるだけで、聞こえ方も変わりました。

それでも、不安定な音の向こうから東京の声が聞こえた瞬間、胸が高鳴りました。

南野陽子さんの「ナンノこれしきっ!」も、眠い目をこすりながら聴いていました。雑音の奥にある言葉を拾おうと耳を澄ませる。今、北海道でこれを聴いているのは、自分だけではないか。そんな気さえしました。

そして、オールナイトニッポン。

とんねるず、ビートたけし、中島みゆき、笑福亭鶴光、伊集院光。今振り返っても、あまりに強い人たちが、毎晩のようにラジオの向こう側にいました。

ビタースイート・サンバが流れると、眠気が消えました。

もちろん、途中で寝落ちして、気づけば朝だったことも何度もあります。それでも、その夜にしか聴けないものを聴いている感覚がありました。聴き逃せば、二度と出会えないかもしれない。だからこそ、一言も逃すまいと耳を澄ませました。

声だけの世界が教えてくれたこと

オールナイトニッポンが始まるまでは、地元北海道のSTVラジオを聴いていました。看板番組は「アタックヤング」です。

テレビもマンガも楽しかった。けれど、ラジオには、そのどちらとも違う熱がありました。

映像がない。表情もテロップもない。話す人の声、息遣い、間、言葉の勢いだけがある。

だからこそ、聞き手は想像しました。

話している人は今どんな顔をしているのか。スタジオにはどんな空気が流れているのか。次の言葉はどこへ向かうのか。

深夜放送では、テレビでは見せない顔が出ることもありました。きれいに整えられていない本音のようなものが、ふと漏れる。今よりもコンプライアンスや各方面への配慮が緩やかだった時代です。危うい言葉もありましたが、その危うさを含めて、パーソナリティーとリスナーが同じ夜を共有している感覚がありました。

高校生になると、ようやく深夜放送の話が通じる友人ができました。ほかのクラスメートにはまるで通じないネタで、二人だけで笑いました。

部活は放送部に入りました。

今にして思えば、あまりに分かりやすい選択です。
私は、声の世界に魅入られていたのだと思います。

北海道には、日高晤郎さんがいた

ラジオの記憶をたどると、どうしても一人の名前に行き着きます。

日高晤郎さんです。

STVラジオの「ウイークエンドバラエティ 日高晤郎ショー」。毎週土曜日、朝八時から夕方五時まで、九時間の生放送でした。

政治も世相も芸能も、歯に衣着せぬ言葉で斬る。笑わせたかと思えば、次の瞬間には人を泣かせる。歌もあり、芝居のような語りもありました。

今の基準で見れば、厳しすぎると感じる場面もあったでしょう。生放送でアシスタントを叱ることもありました。当時がすべてよかったとは思いません。傷ついた人もいたかもしれません。

それでも、晤郎さんの語りには、画面越しのタレントとは違う、逃げ場のない生々しさがありました。

リスナーは、日高晤郎さんを「晤郎さん」と呼びました。

遠い有名人というより、土曜日になるとそこにいる人。厳しいことも言うけれど、また聴いてしまう人。北海道という土地と、リスナーと、スタジオを丸ごと巻き込みながら、九時間を全速力で走り切る人でした。

私が聴き始めたころ、晤郎さんはすでに大スターでした。それでもラジオの向こう側に、完成された人物像ではなく、仕事に厳しく、言葉を信じ、自分の信念で話す人間がいることを感じました。

テレビではなく、ラジオだから伝わる人格がある。

そのことを、私は晤郎さんから教わりました。

深夜ラジオは、もうひとつの学校だった

私にとって、深夜ラジオは、もうひとつの学校でした。

テレビでは聞けない毒があり、大人の本音があり、くだらない下ネタがあり、社会の見方がありました。

とんねるずの破天荒な勢い。ビートたけしの毒。中島みゆきさんの言語感覚と、楽曲からは想像もつかない陽気な語り。笑福亭鶴光さんの深夜らしさ。伊集院光さんの構成力と描写力。

そして北海道には、日高晤郎さんがいました。

彼らの言葉を聴いて、私は話の内容だけでなく、語り方を覚えました。間の取り方。笑わせる前の溜め。怒りを言葉に変える方法。大勢に向けて話しながら、一人に話しかける距離感。

学校では、正解のある答え方を教わりました。

ラジオでは、正解のないことを、自分の言葉で語る人たちに出会いました。

その違いは大きかったと思います。

私はその後、音楽やエンターテインメントに関わる会社で働き、いまはクリエイターやコンテンツに関わる法務の仕事をしています。契約書や規約を扱う仕事は、一見すると、少年時代の深夜ラジオから遠く見えます。

けれど、私が守ろうとしているのは、結局のところ、誰かが自分の言葉や表現を世に出すための場所です。

言いたいことを、言葉や音楽や映像にして届ける人。その表現を受け取り、自分の人生の一部にする人。その間にある権利やルールを整える。

振り返れば、私がこの仕事を選んだ根の部分には、夜のラジオで声に耳を澄ませていた時間があるように思います。

私の「十五の夜」

今はradikoがあり、ポッドキャストがあり、YouTubeがあり、切り抜きもあります。好きな時間に、好きな番組を聴ける。聞き逃しても、あとから追いかけられる。

それは、とても便利です。

一方で、私が子供だったころの深夜ラジオには、その時間に起きていなければ出会えない不自由さがありました。

眠い。雑音が入る。翌朝はつらい。親に知られると、なぜか少し気まずい。録音に失敗すれば、それきりです。

でも、その不自由さがよかったのかもしれません。

ほかの人が眠っている時間に、知らない大人たちの言葉を浴びる。布団の中で、声を殺して笑う。翌日、同じ番組を聴いた友人とだけ通じる言葉で盛り上がる。

盗んだバイクで走り出すことも、夜の校舎の窓ガラスを壊して回ることもありませんでした。

ラジオのつまみを少しずつ回し、東京から届く弱い電波を探していました。

それが、私の「十五の夜」でした。

ビタースイート・サンバが流れる夜に

振り返ると、私の少年時代は、たくさんのマンガと、綺羅星のようなラジオスターたちに彩られていました。

マンガを読み漁り、深夜ラジオを聴き、地元の番組に笑い、東京の電波に耳を澄ませる。

情報量なら、今の方が圧倒的に多いでしょう。コンテンツの数も、比べものになりません。それでも、あの時代のラジオには、あの時代にしかない密度がありました。

声だけだからこそ、想像した。

生放送だからこそ、緊張した。

雑音まじりだからこそ、耳を澄ませた。

夜中だからこそ、少し大人になった気がした。

ビタースイート・サンバが流れると、一人で胸を躍らせました。土曜日には、朝から晤郎さんの声が家の中に響きました。

あのころ聴いた言葉のすべてを、今でも覚えているわけではありません。

けれど、声の向こうに人がいること。言葉には、その人の生き方がにじむこと。誰かの語りが、遠く離れた一人の子供の進路さえ変えること。

それだけは、今も私の中に残っています。

雑音の奥から届いた声は、いつの間にか、私がこれからどこへ向かうのかを教えてくれていたのかもしれません。

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