バリの暮らしは不便なのか?
前回の記事で、わざわざお金を払って不便なところに来たくなってしまう自分が不思議だと書いてしまったのだが、少し時間をあけて考えてみると不便という言葉は少し間違っていたようにも感じる
バリに来ちょうど一週間が経ち、少しはここでの生活にも慣れてきたので、もう一度”不便”という言葉について考え直してみたいと思う
僕がおそらく不便の対象として捉えてしまったのは、生活に必要な技術が現代化されているかどうかの問題に尽きるのではないかと思う
例えば、トイレが水洗かそうでないかという問題
最近では勝手に便座が開くようなトイレまで存在する。僕が今滞在している村はどうかというと、用をたした後に水道で桶に水をくんできて数回流すと排水に流れてゆく
確かにボタンを押すだけで全てが完結することに比べれば少々の手間が要るかもしれない
しかし、ボタンを押すだけで用を足すことに慣れてしまえば、そのシステムがなければ用を足す事さえできなくなってしまうと言えるかもしれない
それは不便かどうか以前の問題なのではないだろうか
その点、この村のトイレはどんな状況においても水さえあれば問題なく使える。故障することもないから自分で綺麗にさえしておけばいつでも当たり前に使うことができる
同じことが他の全てにおいて言えると思う
洗濯や炊事、掃除、移動、買い物などなど。世界中どこにいったて人々が日々やっていることはさほど変わらないのではないだろうか
それが技術的に現代化されているかどうかのみで、不便と便利を線引きしてしまったのはなんだか恥ずかしい
物事の本質、つまり生活の一つひとつに対して目的ではなく、その過程にばかりとらわれていたのではないかと感じる
数週間前に新しいアパートに引っ越したのだが、洗濯機の取り付けがうまくいかず、水が漏れるので何度か近くのコインランドリーを使用したことを思い出した
ここでは、皆当たり前のように桶に水を張って朝から手洗いしている。そして不思議なことに、僕もなんの疑いもなくその生活スタイルにアジャストしている
この違いはなんなんだろうと自分でも考えてしまう
日本には現代化された洗濯機という技術がほぼ100%で普及しているから、手洗いという方法をとってはいけないのか。なんならそんな選択肢は存在しないのか
そんなことに縛られる方がよっぽど不便ではないかと今は思ってしまう
確かに、現代化された技術のもとで時間が短縮されたり手間が省けたりしているのは間違いない。しかし、それによって生み出された時間が果たして本当に僕らの生活を豊かにしているのかはわからない
毎朝、市場に新鮮な食材を買いに行って、手洗いで洗濯を済ましてほうきで敷地内を丁寧に掃除して火を起こして調理をしている暮らしぶりを日々目にしていると、その豊かさに憧れてしまう
自分がそんな生活を今後ずっと続けていけるかと聞かれれば、たぶんノーと答えてしまいそうなのが悔しいが、日本で生まれ育ってしまったからそれまでだ
デンマークで1年を過ごす中で、豊さを追求することはいろんな人と何度も議論してきた
土地それぞれに豊さというものがあって、それを不便とか便利とかで線引きしてしまうのはナンセンスなのではないかと今回気が付けた
一方で、日本での今の生活様式が豊なものであるかどうかはまた別の問題として考えてみないといけないかもしれない
本当はバリでの生活についてもっと書きたかったのだが……..。
Futa
