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紀州水攻め太田城の跡を見にいく

仕事で酷い目に遭っているストレスから50代ひとり旅で和歌山城へ突発的に出発したのは2024年の年末(前回)。

やはり城は美しい。

しかし、今回の旅ではもう一つの目的に「織田信長、羽柴秀吉による雑賀攻め」を設定。ちなみに織田信長による雑賀攻めは、大坂の石山本願寺と織田信長との戦い(石山合戦)から派生。鉄砲を大量運用する雑賀衆の活躍もあり信長は本願寺に大いに苦しめられますが、結局、本願寺法主顕如は降伏。和歌山の鷺森御坊へ退去しますが、顕如長男教如は徹底抗戦を主張。現在の東西本願寺分裂につながっています。ある意味本願寺鷺森別院が西本願寺誕生の地とも言える。

立派。

私の祖父の代で還俗して廃寺にしたそうですが、うちの先祖は美濃の山奥で真宗の在家道場を始めて、その後寺にしたとか。石山合戦の際には、本願寺防衛のため駆けつけ奮戦し、戦後に本願寺直参にしてもらったとか。(直参てヤ◯ザか…。)最近、その話を父親から聞いて興味が湧き、町村誌を調べたらその話載ってました。
うちは東なので西本願寺は厳密には違いますけど、まずはお参りを。

なんかモダンだ。

なんか感慨深い。こういう興味の赴くまま旅をすることができるのがひとり旅の醍醐味。他人の興味など関係ない、己の見たいものを見る。お参りをさせていただいていたら、私以外にも参拝している人がいました。本願寺マニアだろうか。

荘厳

その次に、和歌山城の案内看板で見つけた日本三大水攻めの一つという太田城跡へ向かう。現在は来迎寺というお寺らしい。そもそも羽柴秀吉の雑賀攻めは、小牧・長久手の戦いで雑賀衆が家康方についてしまったことから始まったようです。この辺りがだいぶ混乱したまま見学していたのですが、今回のnoteを書く際に、改めて現地案内看板を読んでいたら、ようやく整理できました。

来迎寺門前

現地案内看板によると「岡山県高松城、埼玉県忍城とともに日本三大水攻めのひとつに数えられる。戦国時代の太田城の本丸跡と伝えられる場所である。城の範囲は現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西250メートル、南北200メートルで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門を持っていたとされる。」とのこと。
清水宗治の切腹で有名な高松城、のぼうの城で一躍有名になった忍城。と、すると、この太田城ももっと有名になっても良いのかと思う。が、いかんせん続く話が怖い。
「天正十三年(1585)年、豊臣秀吉の紀州攻めに際し、太田党は太田左近宗近を大将として、約五千人が太田城に立てこもり、十万余人の秀吉軍に対して強く抵抗したため、秀吉軍は城を取り囲む総延長五〜六キロメートルにも及ぶ堤を築き、水攻めをおこなった。攻防一ヶ月、ついに左近ら中心人物五十余人の首を差し出すことを条件に他の者が助命されたとされる。」
そうです。

現地案内看板

50人余りの首を差し出した…。
この辺りが悲劇的で陰惨な最期。五千人を十万人でいたぶった感もあり、他の2大水攻めとは違う後味の悪さがあります。軍事的な指揮系統が体系立っていて責任者が明確だった高松城や忍城とは違い、各領主の連合体として対抗していたことも犠牲者の数に影響しているのかも。為政者からは治めにくい土地と言われた紀州。ある意味自治が効いていた地域とも言えます。確かにあのような山と海、という地域性から割拠しやすかったのだろう、というのは、現地に行って思った感想です。
ちなみに来迎寺の門は太田城の大門だったようです。

来迎寺の門

さて、この来迎寺の近くに立派な塚がありました。

逆光のため画像を補正しまくってようやくこの感じに

小山塚、と呼ばれる塚でした。
小牧・長久手の戦いの際、雑賀衆と根来寺からなる紀州連合軍約三万が岸和田城を攻撃して大坂城の後方撹乱を行ったため、秀吉と家康の和議が成立すると秀吉は十万の兵を率いて紀州攻めを開始。根来寺を火攻めにした後、太田城を水攻めにした、と、現地案内看板にはあります。火攻めと水攻め。ぞっとしますね。
太田城攻防戦で討死した城兵を祀った塚は市内に10ヶ所あまりあったそうですが、現在はここ小山塚だけだそうです。南無阿弥陀仏。

現地案内看板

今回の旅では、この後根来寺に向かうため秀吉の雑賀攻めの旅になっています。織田信長の雑賀攻めはあまり辿れていないので、再度岸和田方面から来訪する必要があることを改めて気づく。
やはり、紀州は難攻不落の地のよう。また行かねば。
次回、根来寺へと続きます。

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