なぜ日本は「蘭学の国」から「英学の国」へ急転換したのか――江戸時代三百年が現代日本に残したもの
はじめに
江戸時代の外国語といえば、多くの人は英語ではなくオランダ語を思い浮かべるでしょう。
長崎・出島を通じて約二百年間、日本とヨーロッパを結ぶ唯一の窓口となったのがオランダでした。そのため、西洋の学問は「蘭学」と呼ばれ、多くの知識人がオランダ語を必死に学びました。
ところが、1853年のペリー来航以降、状況は劇的に変化します。
わずか十数年という短期間で、日本の外国語教育の中心はオランダ語から英語へと移っていきました。
一見すると、「蘭学は時代遅れになった」と考えられがちです。しかし、本当にそうだったのでしょうか。
実は、日本の近代化は、蘭学という長い助走があったからこそ成功したとも言えます。
二百年間続いた「知識の一本橋」
江戸幕府は鎖国政策を採りましたが、「完全な鎖国」ではありませんでした。
唯一、西洋との交流が認められていたのが長崎の出島です。
オランダ商館は貿易だけでなく、西洋の最新情報を日本へ伝える役割も果たしていました。
医学
天文学
測量術
地理学
化学
植物学
物理学
これらはすべてオランダ語を通して日本へ入ってきました。
つまり、オランダ語は単なる外国語ではなく、「世界最先端の知識へアクセスするための鍵」だったのです。
『解体新書』が示した革命
1774年刊行の『解体新書』は、日本の蘭学史を語るうえで欠かせません。
日本人医師たちはオランダ語の医学書と実際の人体解剖を照らし合わせ、西洋医学の正確さに驚きます。
辞書も文法書も十分にない時代です。
一語一語を推測しながら翻訳した作業は、現在では想像できないほど困難でした。
しかし、この経験によって日本人は、
「外国語を分析する力」
「専門書を翻訳する力」
「未知の概念を日本語へ置き換える力」
を身につけました。
これは後の英語翻訳にも大きく役立つことになります。
シーボルトが育てた人材
江戸時代後期になると、ドイツ出身の医師シーボルトが来日します。
彼は長崎郊外の鳴滝塾で多くの弟子を育てました。
医学だけではありません。
植物
動物
地理
民族学
博物学
など幅広い知識を日本人へ伝えています。
また、日本各地を旅して植物標本や地図を収集し、日本研究そのものにも大きな足跡を残しました。
シーボルトの教育方法は、単なる暗記中心ではなく、
「観察」
「記録」
「比較」
を重視していました。
この姿勢は日本の近代科学教育にも少なからず影響を与えています。
ペリー来航で突然訪れた転機
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