なぜ清須会議では秀吉の「一人勝ち」になったのか- - -山崎の戦いで戦った武将たちの功績が十分評価されなかった理由
本能寺の変(1582年6月2日)は、日本史最大級の政変として知られています。
織田信長が明智光秀に討たれると、全国の織田家家臣たちは一斉に動き始めました。その中でも、後に天下人となる羽柴秀吉が「中国大返し」を成功させ、山崎の戦いで光秀を討ったことは広く知られています。
しかし、ここで一つ疑問があります。
山崎の戦いで実際に戦ったのは秀吉軍だけではありません。
織田信孝・丹羽長秀の軍勢、池田恒興、高山右近、中川清秀、摂津衆など、多くの武将が秀吉軍に合流していました。彼らがいなければ、短期間で光秀を討つことは難しかったでしょう。
それにもかかわらず、その後の清須会議では、結果として秀吉だけが圧倒的な利益を得ることになります。
では、なぜこのような結果になったのでしょうか。
「誰が戦ったか」よりも「誰が主導したか」
歴史では、実際に武功を挙げた人物と、その成果を政治的に利用した人物が一致しないことが少なくありません。
山崎の戦いもその典型例でした。
確かに信孝・丹羽長秀は、本能寺直後に明智光秀の娘婿だった織田信澄(津田信澄)を討ち、織田家内部の混乱を抑える役割を果たしました。
さらに山崎では秀吉軍に合流し、明智軍撃破にも大きく貢献しています。
しかし、戦い全体を指揮したのは秀吉でした。
歴史においては、「参加者」よりも「総司令官」の評価が高くなる傾向があります。
戦後の政治でも、「勝利した軍の代表者」が交渉権を握るのは自然な流れでした。
中国大返しという圧倒的な政治的インパクト
秀吉最大の武功は、実は山崎の戦いそのものではありません。
備中高松城からわずか十日前後で京都近郊まで軍を戻した「中国大返し」です。
この驚異的な行軍によって、
「信長の仇を最初に討った人物」
という政治的ブランドを手に入れました。
当時の武士社会では、主君への忠義は何よりも重要視されます。
「信長の敵討ちを果たした」という事実は、他の武将には簡単に覆せない巨大な政治資産となりました。
山崎の戦いで誰が最も多く敵を討ったかではなく、
「信長の弔い合戦を成功させた中心人物」
という印象が決定的だったのです。
信孝は後継者だったが、主導権は握れなかった
一方で、織田信孝にも決して立場がなかったわけではありません。
信長の三男であり、本能寺直後には軍を率いて行動し、山崎にも参戦しています。
しかし、問題は政治力でした。
秀吉は戦いの直後から、
朝廷との関係
大名との連絡
戦後処理
信長遺領の管理
を次々に進めていきます。
つまり、軍事だけでなく行政まで主導したのです。
対照的に信孝は、武将としては優秀でも、政治全体をまとめるだけの基盤がまだ十分ではありませんでした。
丹羽長秀は「調整役」だった
ここから先は

「日本の歴史にまつわるエトセトラ」
当マガジンは、2026年2月以降にnoteで私が発表してきた日本史関係の記事をまとめたものです。戦国時代や幕末関係のものを中心に、さまざま…

「つれづれなるmy歳時記」(2023年5月執筆分~)
2023年5月以降にnoteにおいて発表してきたエッセイや短編小説・クイズ・言語に関する練習問題などからピックアップして、当マガジンにまと…
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
