あ 1話 (創作大賞2026応募作品)
あらすじ
大きな事件は起きない。
男と女、同じ時間をそれぞれの視点で描いた静かな二日間。
出会いは幼稚園のバザー会場。
主人公は「あ」だけで気持ちを伝える、おかっぱ頭の“林さん”。
前歯の抜けた幼い娘と二人暮らし。1型糖尿病と、縮んだ子宮とともに生きている。
そんな林さんに一目惚れをする青野。
青野は妻子持ち。妻は保護者会長。
林さんには“男”と呼ばれている。
えくぼ、まつ毛、唇、匂い、つむじ、胸の形、体温、靴下、タオルハンカチ、食べかけのバナナ、高野豆腐、子ども……。
互いの日常を執拗に覗き見しながら、すれ違い、少しずつ距離を縮めていく。
二人の恋は、優しさだけでできている。
バザー準備・男
「プラカードを持って」
今朝、妻に言われた。
幼稚園でバザーがあるらしい。
青空。
公園で鳩が歩いている。
白い煙を吐く。
携帯灰皿に煙草をつぶし、ぼくは歩き出した。
徒歩二分、幼稚園の大ホールに着く。
玄関のガラス扉を開けると、甘い匂い。
澄んだ声が聞こえる。
「あ」
声の方を見る。
おかっぱの女が玄関にしゃがんでいる。
右手に、歯形のついたバナナを持っている。
女の周りだけが、ぽわんと白く光って見える。
玄関の真ん中で、ぼくは目をこすった。
やっぱり光っている。
女はしゃがんだまま、ぼくへ向かってきた。
切り揃った毛先が揺れ、ぶら下がった保護者証が弾んでいる。
おかっぱの頭が、ぼくの股の前で止まった。
シャーッ。と聞こえた。
俯くと、猫がいる。
ぼくの足の後ろで毛を逆立てている。
女は猫に手を伸ばした。
指先が、ぼくの脛に当たる。
ズボン越しに、コンッ。
シャーッ。と猫。
女は手を引っ込めた。
手首の骨が、ぼくの内くるぶしに当たる。
コツッ。
猫は低い姿勢で駆け出す。
玄関のガラス扉に顔をぶつけた。
痛そう……
「あ」
また言った。澄んだ声。
女はしゃがんだまま猫に歩み寄る。
猫は後ずさる。
女は手を伸ばす。
その左手に指輪は、ない。
「また野良猫連れてきたぁ」
張りのある声。
妻がプラカード片手に緑色の廊下を駆けてくる。
ぼくの横をすり抜ける。
玄関のガラス扉を開ける。
プラカードをほうきみたいに振る。
猫は出ていった。
「林さん、ごめんねぇ」と妻。
女は立ちあがり、首を横に振る。
「この人、いつも猫連れてくるの」と妻。
ぼくをあごで指した。
女がぼくを見る。
目が合うと、目を伏せた。
小さな口がバナナをかじった。
「林さん……」
名前を呟いてみる。
女がぼくを見た。
ぼくに会釈をした。
林さん、で間違いなさそう。
林さんが微笑んだ。
左頬の真ん中に、爪の跡みたいなえくぼができた。
中学生みたいな保護者。
どうやって子どもを産んだのだろう……
ぼくは林さんを見つめる。
突然、プラカードがぼくの視界を塞いだ。
「バザー会場 入口」
黒字のポップ体。
「はい」と妻がぼくにプラカードを差し出していた。
受け取り掲げる。
林さんの顔が見えた。
目が合う。
「あ」と林さん。
茶色い来客用のスリッパをぼくに出してくれた。
「ありがとう」
ぼくはスリッパを履く。
なぜだろう。
左足の親指と人差し指の股がちくちくする。
「じゃ、よろしく」
妻は茶髪を揺らし、廊下の奥へ駆けていった。
その背中を見送る。
ぼくの目の前を、保護者たちが忙しなく行き交っている。
たくさん人がいると、今、気づいた。
「あ」
後ろから、声。
聞こえた気がする。
振り返る。
相変わらず、玄関にしゃがんでいる林さん。
バナナの最後の一口を食べた。
皮を畳んでポシェットにしまってから、来客用のスリッパを並べ始める。
一足置くたび、髪の艶が動く。
「林さん」
呼んでみる。
林さんがぼくを見あげる。
「トイレ、どこ?」
ひそひそ声で訊いてみる。
林さんは指を閉じ気味にピースサインをした。
ぼくは首を傾げる。
林さんにピースサインを返してみる。
微笑む林さん。
えくぼ。
「……二階?」とぼく。
首を縦に振る林さん。
揺れる髪。
小さな耳が一瞬見えた。
「ありがとう」とぼく。
頬を赤らめ、膝に顔を埋める林さん。
つむじに白髪が二本立っている。
ぼくは林さんに背を向ける。
プラカードを廊下に寝かせ、歩き出す。
ジグザグの階段をのぼる。
踵についてこないスリッパ。
左足からすっぽ抜け、三段下に裏向きで着地。
スリッパを見下ろす。
光る。
底に、金色の丸い画びょうが刺さっている。
「スリッパ脱げたよ」
妻が階段を駆けあがってきた。
背中を屈めスリッパを拾う。
画びょうを見て、
「うわ……」
妻は親指と人差し指で画びょうをつまみ、スリッパから抜いた。
画びょうを握りしめる。
「ありがとう」
ぼくはスリッパを履き直し、階段の続きをのぼった。
トイレの戸を開ける。
蝶番が叫ぶ。
すのこの上でスリッパを脱ぐ。
水色のゴム製便所スリッパに履き替えると、
足の甲でつっかえた。
林さんの足だと、ぶかいかもしれない。
すり足で小便器まで歩く。
銀色の平たいボタン。押すと、流れる。
緑色のハンドソープ。泡が立たない。
蛇口をひねる。
水。
排水口へ吸い込まれていく。
顔をあげると、鏡にぼくの顔が映る。
微笑んでみると、えくぼは、ない。
指を閉じ気味にピースしてみる。
肘へ水が伝う。
ズボンのポケットからハンカチを抜く。
落ちた。
黒ずんだタイルの床。
四つ折りのタオルハンカチ。
ワニのワンポイント。
手を伸ばす。
左手の結婚指輪。
光る。
水滴が乗っている。
林さんは指輪をしていなかった。
肌が、金属に弱いのかもしれない。
