見出し画像

短編小説 | 毒


- 1 -

格子戸こうしど隙間すきまから忍び込む夕闇が、たたみの上に長い影を落としております。

台所では、しゅんしゅんと薬罐やかんが鳴り、白い湯気が空気を湿らせます。私は夫の帰りを待つこの刻限ときが、一日のうちで最も恐ろしく、そして最も甘美な時間であると感じます。

取り出したのは小さな紙包みでございます。

その中には雪のように白く、それでいて不吉な光沢を帯びた粉末ふんまつが収められているのです。

私はそれを、夫のぜんに並ぶ吸い物のわんの中へ、音もなく落としました。さあっ、と波紋はもんが広がり、粉は一瞬にして澄んだ出汁だしの中に溶け込んで消えてゆきました。

これで、もう後戻りはできません。


- 2 -

私の夫は、立派な大学を出て官吏かんりを務める、非の打ち所のない男でございます。

言葉は少なく、端然たんぜんとした構えを崩さず、横顔は冷たい大理石の彫刻を思わせます。世間の人々は、私を果報者かほうものうらやみます。これほど立派な夫に愛され、静かな暮らしを送れるのは、女として最高の幸せであろうと。

けれども、この家の奥深くに潜む空虚くうきょを、誰が知ることでしょう。

夫婦になって5年の歳月が流れました。

しかし、世間がうらやむむ、その実態は、ただ、同じ屋根の下で呼吸を共にしているだけの、2つの孤独なかたまりが、沈黙のまま転がっている様なものに過ぎないのです。

夜、寝所しんじょに並べられた二つの布団の間に横たわるのは、目に見えない深いふちでございます。夫は私に背を向け、規則正しい呼吸を刻むばかり。私はその背中を見つめながら、己の指先が凍りついてゆくような心地ここちで、幾晩いくばんも幾晩も過ごしてまいりました。

の想いがお解りになるでしょうか。


- 3 -

「ただいま」


玄関の戸が開く音がいたしました。

私は胸の鼓動こどうを抑えながらも夫を迎えました。

夫は外套コートを脱ぎ、いつものように疲れた顔で私を見下ろしました。その瞳には、私という女が映っているのか、あるいは職務の書類が浮かんでいるのか、判然はんぜんといたしません。


「夕飯の支度…できてるから…」


私は震える声を押し殺して申しました。

夫は無言でうなずき、食卓につきました。

私は、給仕きゅうじをする手が震えぬよう、細心の注意を払いました。夫が吸い物のわんを手に取った瞬間、私の心臓は、まるでかごの中の鳥が羽ばたくように激しく打ち鳴らされました。

あなたは、これを毒だと思われるでしょうか。それとも、私という女の執念だと、お気づきになるでしょうか。

夫は、一口、その汁をすすりました。

私は息を潜め、夫の喉仏が動くのを凝視ぎょうしいたしました。夫は何も気づかぬ様子で、二口、三口と飲み進めてゆきます。私の内側では暗いよろこびが、じわりと広がってゆきました。

この薬が、夫の血管を巡り、その冷え切った身体の芯を、熱く焦がすさまを想像いたします。

これまで、私を無視し、私を女として扱わなかったむくいでございます。

あなたは、もう逃げられない。


「今日のは、少し味が濃いな…」


夫がふと、箸を止めて呟いたので、私は心臓が止まるかと思いました。


「お口に、あわなかった…?」


「いや、身体が妙に、火照ほてるような気がする。だから味が違うように感じるんだろう。疲れているせいかもしれない…」


夫は言って、額に浮いた汗を拭いました。

そのほおが、わずかにしゅを帯びているのを見て、私は確信いたしました。

薬が、いてきたのです。


- 4 -

「ああ…」

の夜、漏れ出た声は自分のものではないようになまめめかしく、闇に溶けてゆきました。

夫の指先が、私の襟足えりあしから背筋へとうにつれ、死んでいたはずの血潮ちしおが、にわかに奔流ほうりゅうとなって全身を駆け巡ります。それは雪解けの水が乾いた大地をうるおし、芽吹めぶきの予感に震える野山のよろこびに似ておりました。

触れ合う肌と肌が空白を埋めるかのごとく、貪欲に熱を求め合い、どこまでも熱く昇ってゆくのがわかります。

私の内側に眠っていた情念が、紅蓮ぐれんの炎となって燃え上がり、このまま灰になっても構わぬとさえ願うほどに、私は今、生きております。

鏡台に置いた薬の箱を見て、私は心の底から感謝せずにはられませんでした。


『最強精力剤!ビンビン!赤マムシ粉末』


(2026/03/01)